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岡潔『春宵十話』


すこし前、よく行く古本屋に寄ったら、入り口に近々店じまいをする、という知らせが貼ってあった。さみしい。これはその日に買った本。

書棚に並べられているのでなく、その辺に積まれてあった本で、背表紙ではなく顔が気に入って手に取った。

読んでみると、数学者というよりか、剣術の達人か、熟練の刀鍛冶の書いた文章みたいに感じる。「境地」という言葉が、ふと頭に浮かぶような一冊。



「情緒」についての話が多い。以前、小林秀雄との対談を読んだことがあって(すごく面白かった)、そのときも岡さんは「情緒」の話をしていた。数学について、教育について、日本人についてと、話題はいろんな方向に伸びているけれども、本書でもその芯のところは「情緒」ということにあるように思う。

ところで、その「情緒」というのが難しく、自分にはうまく言語化できない。たんに自分の理解が足りていない、能力不足という面は大いにあると認めつつも、いっぽうで、「情緒」そのものが「手短な言葉でまとめる」ということにそぐわない性質をもつようにも思う。

季節の味わいを看取するセンスを、論理で語るというのは難しい。と、いうか、仮にうまく理論化できたとして、感覚の原理的な説明と、その感覚を伝えることは異なる。

調理の行程でどんな化学変化が起こっていて、人の味覚がどういった仕組みで反応するか、という説明をきいても、料理を食べた感じはしない。というのと似てるかもしれない。

そして本書で言われているのは、味の仕組みを知ることではなく、ものを味わえる感覚を養うことの重要さ、ではないかと思う。



ひとつ印象に残っているのは、「人の悲しみがわかる」ということ。情緒の働きが鈍っている人、あるいは情緒のうまく育っていない人は、それがわからない、という。

この喩えは、読んでいてすっと腑に落ちるような感じがあった。たぶん、こうした論理的な証明に先行する、閃きのような「わかる」の感覚は、「人の悲しみがわかる」というときの「わかる」に通じているように思う。

ところで、「わかる」というのはなかなか不思議なことだと思う。実際には理解してなくても「わかった」と思うことは当たり前にあることで、変である。

僕はどちらかというと、「わからない」とすぐ言うタイプだと自分では思っている。それは自信がないからではなく(自信がないときも沢山ありますが)、「わからない」ことに妙な確信があるからだ。が、それは要するに「わからない」ということを「わかった」つもりでいるということでもあって、やはりなんか変である。



言葉の意味がわかる、というのも考えてみれば不思議な体験で、習ったことも辞書で引いたこともない単語の意味を知っていたりする。 

たとえば、自分は i'm sorry for〜 と i'm sorry to〜 の意味の違いをうまく言語化できない。そのくせ、それぞれから違う意味を感じる。強いて違いを問われたら「こういう場面では for を、こういう状況では to を自分は使う」と説明すると思う。

これは母語の日本語でも同じことで、助詞の「は」と「が」の違いを説明するのは難しい。というか、説明できない。けれども、具体的な文と文脈を与えられれば、どの場面でどちらがより自然に聴こえるか、あるいはどちらを使うとどういった含みをもつか、ということが、おそらく瞬時に「わかる」。

そういうわけで、「わかる」ということは、思考の結果というより、直感の働きによるもの、としたほうが腑に落ちるところがある。



「情緒」というのは、おそらく「わかる」という直感のはたらき方にかかわるものなのだろう。本書でも、解けない問題についてあれこれ夢中にとりくんだあと、しばらく放置していると自然とあるときふっと解けることがある、というような話がでてくる。

読んでいると、「わかる」というのは、みずから為すこと、というよりも、おのずから起こることのように思えてくる。

僕がイメージするのは、植物を育てるような感覚だ。土を耕したり、種を撒いたり、水をやったりは「自分」がおこなうことだけれども、植物の生長は、植物のほうでやっている。僕が一生懸命に力んだら芽が出るとか、そういうことはない。

自分が何かを「わかる」ということは、自分のなかで起こっていることだけれども、それは自己意識とか、主体とかと切り離されたところで、おのずから起こっていることみたいに感じる。

ちょうど、心臓の鼓動や、腸の蠕動が、自分のなかで起こりながら、自分の意思のあずかり知らぬところで進行しているのと同じような感じだろうか。あるいは、夜みる夢を選べないのと似ているだろうか。夢はかってに来たり、来なかったりする。



けっこう前に読んだ本で、記憶が少し怪しいのだけど、アントニオ・ダマシオの『進化の意外な順序』という本がある。

この本は、進化の結果としてできた高度な脳によって「感情」か生じた、という考えをひっくり返して、先に「感情」の方が生じて、それが進化の方向性を左右した、というような説を唱えている(と、思う。間違っていたらごめんなさい)。

初期生命も、なるべく死なないでいるために、食餌をしたり、危険を避けたりしていた。こうした生存のための選択的行動は、何かを好んだり嫌ったりする、ということの原始的な形態だ。この分子(栄養物から発される)のにおいは「好き」、この分子(毒性がある)のにおいは「嫌い」というように。

というのも、状況をシミュレートして最適解を計算する脳のような組織が発生する以前に、そうした「行動の選択」が可能になるには、好き嫌いのような「感情価」による選択肢の重みづけが必要だからである。脳のような発達した神経系よりも先に、そうした「原-感情」が先にないと、自然選択や淘汰圧ということは起こりえない。ざっくり説明するとこんな感じの本である。

岡さんの「情緒」の話を読んでいると、ふとそのことが思い出された。ただし、ダマシオの本では「感情」と「情動」が区別されていたりなど、そのままシンプルに「情緒=感情」と、重ねてみることはできない。

けれども、高度な情報処理を行う脳よりも「感情」が先んじている、という考えと、理性や知力のはたらきは「情緒」の土台の上に建てられるという見方は、どこか似通っているように思う。



しかし、何かと何かが「似ている」ということは、どのようにして「わかる」のか? と、いうことを考え出すと、またよくわからなくなってくる。本当に、ダマシオと岡潔の言っていることは似ているのだろうか?

今はそういうふうに感じるけれど、三ヶ月後には別の感じを抱くかもしれない。今から三ヶ月後というと、六月の半ば頃で、梅雨入りしているかもしれない。春先に思いつくことと、梅雨に考えることというのも、やはり違うと思う。

どんなふうに違うか少し気になるので、また梅雨入りしたら読み返そうと思う。と、三月の僕は思っている。さいきん気づいたのだけど、雨もけっこう美しい。梅雨が楽しみだ。紫陽花もよく咲いてくれたらいいですね。

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