見出し画像

ボルヘス『シェイクスピアの夢』


行きつけの本屋の新刊の棚に、この本があったので、迷いなくレジに持って行った。

何も考えずに、習慣のように手に取ってしまう本。歯を磨くとき手の動きを意識しないように、弾き慣れたフレーズを演奏するピアニストが運指について無意識なように。そういう本がある。

迷いなく手に取れる作家がいること。その作家の本に、行きつけの本屋で出会えること。こういうのは、けっこう嬉しい。しずかな幸せだと思う。

habit(習慣)の語源はhabere(持つ)だという。そしてhabereの反復をあらわす動詞habitareは、habitat(生息地)、inhabit(住む)の語源なのだそうだ。

ある作家に馴染むこと、その作品を繰り返し通過することは、そこに棲まうことに通じている。そこで眠り、目覚める場所のような作家。ボルヘスは僕にとって、そういう雰囲気のある作家だ。

収録された四つの短編のどれにも、著者らしいモチーフが登場する。夢と記憶。秘術、分身、虎。

僕は『ブロディーからの報告書』みたいなリアリズムよりの素直な小説よりは、魔術的・迷宮的な『伝奇集』に魅せられてきた質の読者なので、そこにある雰囲気が懐かしく、すぐにこの本が好きになった。

なかでも「青い虎」がとくに印象的だったので、その感想を書こうと思う。

まずはあらすじ。主人公は論理学の教師で、スピノザを教えている。彼は「虎」に並々ならぬ深い愛着を持っている。「青い虎」が発見された、というニュースを耳にして、彼はひと目その虎を見ようと現地へ赴く。

当地の村人は警戒した態度で、ふるまいも不自然で怪しい。虎にも出会えない。業を煮やした主人公は、立ち入ってはならない「聖なる山」に踏み入り、そこで夢でみた青い虎と同じ青色をした小石をみつける。

この石が不思議な代物で、ポケットに入れて持ち帰ると、ひとりでに数が増える。そもそも数を数えることも難しい。

簡単な計算が不可能だった。小石のひとつをじっと眺め、親指と人差し指でつまみ上げる。ひとつのはずなのに、たくさんの小石がそこにある

石は村人に「子を産む石」と呼ばれ、畏怖されている。主人公はこの石の増え方の法則を研究してみるが、芳しくない。石の在り方は背理そのもので、論理学の教師である主人公は、次第に自分が正気を疑わしく思え、ノイローゼ気味になっていく。夢にも石があらわれ始め、その怪物的なイメージに彼は怯える。

そしてその底に、あの亀裂が、小石があった。小石はまたベヒモスあるいはレヴィアタン、すなわち主は不条理であることを聖書において意味する、あの獣たちでもあった

ある夜、悪夢に悩む彼は眠らずに夜明けまで辺りをうろつき、立ち寄ったモスクの境内で、この重荷から解放してくれるようにと祈る。すると、目の白く濁った乞食があらわれ、彼に恵みを乞い、青い石を受け取って去る。と同時に、主人公もその乞食から「恵み物」を渡され、物語は終わる。

やがて乞食は言った。
「お前さまの恵み物がどういうものか、わしにはまだ分からんが、わしからの恵み物は、それはそれは恐ろしいものじゃぞ。昼と夜、分別、習慣、そして世間なぞがお前さまのものじゃ」



このお話にでてくる奇妙な青い石。それは村人にとって聖なるものであり、同時に「それに触れるくらいなら銃で撃たれる方がマシ」と言われるほど呪われたものでもある。

聖なる(sacred)ものとは、もともと区別された(sacren)ものを指すそうだ。神に捧げられる犠牲(sacrifice)とは、聖なる(sacer)行い(facere)、すなわち秘儀によって聖別されたものを意味する。

聖なる/呪われた青い石。それを所持することは、聖性を分有するのみならず、その持ち主が犠牲に捧げられることと切り離せない。だから、村人はそれに触れることを恐れる。

村人たちの私に対する態度が変わった。彼らは青い虎と呼んでいるが、小石の神聖さが私に乗り移っていたのだ。しかし同時に、山頂を穢した罪が私にあることも彼らは知っていた

神聖さが移ることと、罪に穢れること。それは、聖と俗を分ける境界を跨ぐ、聖別される、という単一のできごとの二つの側面だ。

sacer(聖なる)は「消えない汚れ」も意味する。また、stigmaが「聖痕」と「不名誉の印」の両方を意味し、「呪う」という漢字が「まじなう」とも「のろう」とも読めるように、聖性と穢れとは、しばしば両義性をもつものだ。

結末で青い石を引き受ける「乞食」は、みずからを「罪ある身」と称する。たぶん、その「罪」ゆえに共同体から排斥されているのだろう。

社会の周縁に生きる者。でも「乞食」をしている以上、土地から追放されてはいない。理性への信頼が揺らいでるけれど、まだ狂気に呑まれ切ってはいない主人公と似ている。この二人は、聖なる/呪われた境界に接近し、その中間地帯、その境界線の上で揺れているような状態にある。

この「乞食」が、主人公の重荷を引き受け、その救い手となりえたのは、まさに彼がそうした「罪」や「排斥」によって、同じ地帯にいるからではないか、と思う。二人は聖別の秘儀に過程にいるのだ。

社会の隅にいる弱者が、聖なる石を引き受け、呪いを贖う。卑小さと偉大さの奇妙な等価性。それは僕に、同じくボルヘスの著書『幻獣事典』に出てくる「足萎えのウーフニック」や、『ボルヘス怪奇譚集』にある「人食い鬼」の話を思い出させる。

彼らは互いのことを知らず、そしてたいへん貧しい[…]足萎えのウーフニックたちは、それと知らずに宇宙の隠れた柱となっている。彼らがいなければ、神は人類を全滅させてしまうだろう。気付かないままに、彼らはわれわれの救い手となっている。

ボルヘス『幻獣事典』

あらゆる人食い鬼がセイロンに棲み、彼らの存在すべてがただ一個のレモンのなかにはいっていることは、よく知られている。盲人がそのレモンを切り刻むと、人食い鬼は残らず死ぬ。

ボルヘス、ビオイ=カサーレス『ボルヘス怪奇譚集』

不具者、弱く卑小なものが、怪物的に巨大なものとのあいだに、秘密の連関を隠し持っている。ウーフニックたちが「足萎え」であり、「ただ一個のレモン」を切り刻むのが「盲人」でなければならない理由。それは、青い石の引き受け手が「乞食」でなければならない理由と、同じではないかと思う。



「乞食」は、主人公からの「恵み物」を受け取ったあと、どこかへ去る。その足音は聴こえず、その姿もみえない。彼はどこへ去ったのだろう?

主人公は、少しずつ正気を失いつつある。俗世と聖なる狂気の世界とのあわいにいる。青い石という呪いを差し出すことで、彼は正気の世界、俗なる世間に復帰する。

「乞食」は「それはそれは恐ろしい」と彼が呼ぶ「昼と夜、分別、習慣、そして世間なぞ」ーー論理学者にとっては棲みなれた場所ーーを主人公に引き渡す。この二人は、互いの呪いを恵みとして交換している。

その取引が行われるのは、夜は明けたけれど、まだ朝の光の届かない、光と闇のあわいの時刻。モスクという聖なる場所。互いにそれと知らず、二人は秘儀を交わし、互いを犠牲に捧げ合っている。

おもしろいのは、二人は共に、それぞれの仕方で呪われているのだけど、「呪われた/聖なる」の二重性が、みずからの重荷が相手にとっての救いとなるような、たがい違いの仕方で働いていることだ。

儀式の効果は、交差するように二人を境界の「こちら側」と「向こう側」へと送り出す。聖別する。だとすれば、姿のみえなくなった「乞食」が去った先は「向こう側」の聖なる領域であり、それは「青い虎」がいるのと同じ、夢でしかみることのできないところ、なのだろう。

そうしてみると、夢とは、聖なるものと俗なるものの境界が曖昧になる空間、「区別する」という儀式が無効になる場所のようにも思える。

全てが聖なるものになる楽園でもなく、全てが邪悪なものになる地獄でもない。魂の聖化が行われる煉獄でも、それらの賭けの舞台となる地上でもない場所。どこでもない場所。非-場所。

夢とは、そういう場所ではない場所だ。その意味で、ボルヘスの書くものは、夢みたいだと思う。僕はときどきそこに棲んでいる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?