フランソワ・グロジャン『バイリンガルの世界へようこそ』
この本での「バイリンガル」という言葉の対象は、ずいぶん広い。いわゆる「標準語」のほかに地方語を操る者も含まれるし、「バイ」と言っても、三つ以上の言語に通じている者(プルリンガル、ポリグロット)も「バイリンガル」に含まれる。
読んでいると、言葉を数える、というのはどういうふうにやるんだろう、とふと不思議に感じたりする。互いによく似た二つの異なる言語と、同じ言語内での個性の強い二つの方言、それらはどうやって区別されているのだろう?
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著者グロジャンの見方によれば、たとえば「英語の先生」もバイリンガルだ。その言語の習熟の度合い(発話の流暢度や、用いるフレーズの自然さ)によって、バイリンガルかどうかは左右されない。
本書は、こんなふうにして、より多くの人を「バイリンガル」のなかに受け入れる、または取り込もうとする。
バイリンガルにまつわるネガティブな評判(たとえば、バイリンガル教育を受けた子どもは知的発達が遅れる、など)について、さまざまな研究結果を引いて反駁していく。さしてバイリンガルであることのメリットについて説く。邦題の「ようこそ」という部分は、この本のそうした「バイリンガルへ招待する」雰囲気をよく伝えているように思う。
バイリンガルであることのメリット・デメリットについて、おそらく最大のメリットは「認知的な柔軟性があがる」ことで、デメリットはどうも「無い」らしい。とはいえ、たぶん言語習得にかかる時間や労力は計算外だと思うけど。
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「バイカルチャー」という言葉も登場する。これはバイリンガルの文化版、複数の文化的背景をもつ人、というような意味だ。
たとえば移民を経験した人は、生まれ育った国と、移民後の生活で二つの文化を生きることになる。また、移民の子もまた、家庭と学校(社会)とで別の文化を生きるバイカルチャーな人になるかもしれない。
バイリンガルについてもそうなのだけれど、バイカルチャーもまた、二つの文化、仮に「文化A」と「文化B」を場面に合わせてスイッチしながら生きている。僕らが普段、家族や親しい相手との会話で「タメ語」を話し、フォーマルな場では「敬語」を話すような具合だろうか。
ここで「タメ語を話すあなたと、敬語を話すあなた、どちらがほんとうのあなたなのか?」という問いはナンセンスだろう。これらはどちらも「ほんとうの」自分の一側面であって、「どちらが」と問えるものではない。両方ともが全体をなす一部なのだ。
しかし、複数の文化的背景を背負う人は、しばしばこうした「お前はどちら側なのか」という問いに(あるいは尋問に)晒される。「敵か、味方か、文化的な身分証を提示しろ」と。
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これは言語についても同じように思う。どちらがあなたの「ほんとうの言葉」なのか、という問い。
それは問いではなく、「あなたはこの国に移住してずいぶん長いから、もうこの国の言葉があなたの言葉ですよね」、または逆に「いくらこの国の言葉に慣れても、幼少期に身につけた母語のほうがあなたの言葉なんですよね」、というような想定のかたちを取るかもしれない。
「敬語とタメ語」の例を思い出してほしいのだけど、複数の言語を話す人にとって、どれかひとつの言葉だけが「ほんとう」と、考えることには、少し危ういところがあるように思う。唯一絶対の「本質」があって、その他は「偽物」だとみなすような、本質主義的な危うさ。
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文化についても同じだけれど、当人にとって「より自分に馴染んだ感じ」がする言語はあると思う。バイリンガルが、複数の言語を常に均しいバランスで使用するわけではない。
たとえば、習熟度の低い言語を話すときに、思うように言葉がでてこなくてフラストレーションを感じることもあるだろう。その場合、あくまでそれは「第二言語」とみなされるように思う。
けれども、使用頻度や「馴染む感じ」に優劣があるからといって、ただちに「どれかひとつがほんとう」ということにはならないように思う。
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ふたたび「敬語とタメ語」の喩えで考えてみれば、どちらが自然な言葉遣いかは場面に応じて変わる。親しい間柄で「敬語」を話せばよそよそしく響くかもしれないが、ときに真剣さを伝えるためにあえて親しい相手に「敬語」で話す、ということもある。
このとき、砕けた口調の「タメ語」を話すあなたと、真剣な「敬語」を話すあなたの、どちらかいっぽうだけが「ほんとう」ということには、やはりならないように思う。場面によって使い分けられる「敬語とタメ語」は、それぞれが、そのときのあなたにとって「より妥当」、あるいは「より自然」なものとして話されているのではないだろうか。
第二言語も同様に、特定の場面や文脈においては、第一言語よりも「自然」なものになり得るように思う。
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英語を学んでいると、日常でふと英語のフレーズが日本語より先に浮かぶことがある。たとえば、人の思い出話を聞いて「that's so sweet」というフレーズが頭に浮かぶ、みたいにして。
これを「それはとても甘い思い出だね」と、日本語に置き換えてみると、このフレーズはあまりにもぎこちなくて、とても自然に口にすることはできないな、と思う。
でも「sweet」と感じたときの自分は、あくまで自然にその印象を抱いていて、第二言語だからそれが「ほんとうではない」とされたら、ちょっと困ってしまう。
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「敬語とタメ語」が、言葉の別のモードでありつつ、どちらもひとりの個人の一部なように、バイリンガルにとっての異なる言語同士もまた、異なるシチュエーションでそれぞれ「自然」なものなのではないか、と思う。
どちらの言語が優勢か、ということは言えるし、どの言語にもっとも親しみを感じるか、ということも言える。けれど、それはそれとして、使用頻度や習熟度において劣位な言語、まだ学習途中の言語もまた、その人の言葉の一部だ。
新たな言語を身につけること(外国語であれ、第一言語の方言や古文であれ)は、自分の言葉の世界に新しい視点を、新しいメロディを迎え入れることのように感じる。
バイリンガルの世界に入っていくこと。新しい配合で言葉を生きること。それは確かにずいぶん楽しそうだな、と思った。けれど、バイリンガルには、バイカルチャー的な「アイデンティティ尋問」の苦労もつきまといそうにも思える。
それを「デメリット」と呼ぶ人もいるかもしれない。けれども、そうした苦労、自分のなかの複数の言語を、どんなふうに位置付けるかを試行錯誤(自問のかたちをとった、アイデンティティの問いかけ)するプロセスは、「メリット」とされている柔軟な認知的態度の涵養と無関係ではない、と個人的には思う。
母語に違和感を覚え、改めてそれと和解するような感覚。バイリンガルという生き方は、そうした興味深い感覚を教えてくれるように思う。
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