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ジョゼ・サラマーゴ『だれも死なない日』


これは例外の話だ。例外状態。

これまで読んだサラマーゴの作品は、どれもそうだった。『白の闇』も『見ること』も。特殊な状況に置かれた人々の話。本作では、ある国で、ある日を境に、人がだれも死ななくなる。

人はみんな死ぬ。死なない人はいない。いない筈だから、例外である。それが突然、常態になる。人々がその変化にどう反応するか。それが描かれる。

葬儀屋や保険屋が困る。人が死なないと商売あがったりである。重症・重病で瀕死(だが死ねない)の家族を抱えた人々も困る。病院も困る。政府も。

そのうち、人体を密輸する組織が現れる。不思議にも、人が死なないのは国内限定で、国境を越えると瀕死の人は亡くなる。だから国外へ運ぶ。一種の安楽死として。それは真夜中、人々が眠っているあいだに、秘密裡におこなわれる。

それを「非人道的」という人もいるし、逆に瀕死のまま苦しませることを「残酷」と捉える人もいる。ちょうど、小説の外の安楽死と同じように。

人々のあいだに、そういう場面での道徳が共有されていないのだ。人は、つい最近まで死んでいたから。倣うべき前例もない。ルールも、ガイドラインもない。

そういう状況で、「運び屋」的な地下組織は自然発生する。国会で審議されてできたわけではない。気がついたら、すでにそうした集団は現れている。

自然環境が変わると、生き物の生態も変わっていく。変異種も現れる。生き物同士は「どんなふうに変異しようか」と相談したりしない。人や、人の社会も同じだ。サラマーゴは、そういう自然な変化を書くのがとても上手い。



話は途中から脱線し始める。またしても唐突に、人は死ぬようになる。しかも今度は死ぬ前に「来週あなたは死にます」という告知が届くようになる。紫色の封筒で。

市民の反応はさまざまだ。不死の呪いからの解放を喜ぶ者。手紙の到来に怯える者。あるいは、いち早くそれを受け取って絶望する者。が、こうした社会の反応は、どちらかというと背景描写のようなもので、「死」の話がメインになる。

「死」は、概念としての死が人格化されたもので、喋ったりする。死亡前告知を出すのもこの「死」である。ポルトガル語で morte 、女性名詞。彼女の物語が主軸になる。いろいろあって、彼女は恋に落ちる。「死」の恋愛譚になる。

社会の話から、個人の話へ。生と死の難問から、色恋沙汰へ。この順序が面白いと思った。読みながら、「どういう展開の仕方なんだ?」と思った。後に置かれるからには、小説的に、恋愛は不死より重いのだ。



二人(?)の恋の展開は、よくある話である。ぎこちない会話があって、互いに相手を深読みして、なにかと自分に言い訳をして、結局はなりゆきと感情に流され、結ばれる。

こういうのは本当によくある話なので、自分も身に覚えがある。他人のそういう話も目にしたことがある。こういうのは、よくある話のほうが良いと思う。

ある男に、死の通知が届かない。というのが出逢いのきっかけである。どういう手違いかわからないけど、この郵便的エラーで死のスケジュールが狂う。

偶然が二人を引き合わせる、というのもベタというか、王道である。男は死ぬべき日に死ななかった。それが、男を「死」にとって特別なものにする。彼は例外なのだ。男はチェロ奏者で、飼い犬と暮らしている。

「死」もまた、この例外にうろたえる。まずは、そんなわけがない、と否認する。それから、なぜこんなことが、と悩む。そうこうしているうちに、このチェロ奏者が気になりだす。なんやかんやあって、やはり定石通り、二人は同じベットに入ることになる。よかったね。

この会話を聞いてる人がいたら、みんなぼくたちは男と女の恋のゲームをしていると思うだろうな。

これはチェロ奏者と「死」の会話からの引用。もちろん、読者は二人の会話を「男と女の恋のゲーム」だと思う。事実、そうなのだから。そうと認めないのは当人たちだけである。素直じゃないのだ。

「また会いたいです」と言う代わりに「もう会えないでしょうね」と言ってしまう。それくらい素直じゃない。不自然で、ぎこちない。硬い。肩に余計な力みがある感じ。呼吸が浅くなっている感じ。あがっている感じ。

awkward(落ち着かない、ぎこちない、気まずい)の語源は「間違った方向」だという。awk の部分をさらに遡ると、「向きが逆だった」を意味する afugr という言葉に由来するそうだ。

この二人は、意中の人に「ブス」とか「ダサい」とか、思っているのと逆のことを言ってしまう子どもと大差ないのである。けっこうチャーミングな人たちだと思う。



人は緊張すると awkward になる。逆に「自然体」といえば、ほどよくリラックスした状態を指すだろう。

異変を前にすると、身体が硬直する。神経が昂る。息は浅くなり、リズムも乱れる。例外は人を緊張させる。

この小説の大部分は、パニックになったり、焦ったりしている人たちの描写でできている。たとえば真夜中、瀕死の家族を密出国させる場面。彼らは眠っているはずの時間に働く。気を張って、おそらく呼吸は浅く、身体は力み、嫌な汗をかいている。

例外の話とは、緊張の話なのだ。

それと対照的に、この物語のラストは、「死」が恋人の隣で眠りにつく場面で締めくくられる。リラックス、脱力、弛緩。最後に配置された「眠り」のシーンは、そうしたものの象徴のように感じた。力みや緊張や  awkwardness の反対。ゆるんだ、ほどけた雰囲気。



「死」とチェロ奏者は、まず例外に対抗しようとする。身体を緊張させて立ち向かうわけである。といっても、あたふたして自分の気持ちを否認するだけですが。それが次第にほどけていく。自分を例外に合わせていく。

合わせるといっても、降伏したり、譲るのではない。同期していく。リズムを合わせる、というときの「合わせる」に近い。

要はセックスのときの感じである。二人でやる行為なので、独りよがりだと上手くいかない。受け入れるだけでも、相手任せになってイマイチである。相手を預かりつつ、自分も預ける。自分と相手の動き、感覚を同期させる。合わせる。

例外に対抗して、処置を講ずる。それも一つのやり方だと思う。が、例外と同期する。変化した状況に、自分のほうを合わせる。という方法もある。「死」の恋を読んでいて、そういうことを思った。

これは別に、二者択一ではない。病気になったら、病変の除去もおこなうが、痛みを避ける姿勢をとるとか、病気に合わせることも並行する。たぶん、両方できたほうが良いのだろう。



さいきん暑いので半袖を着ている。季節が変わったら、着るものを変える。食べるものも変わる。さっぱりしたものが欲しくて、ぽん酢をよく使う。自然とそうなる。そのほうが快適だから。awkwardness の反対語は comfort である。心地よさ。

生き物の進化というのも、単純化すれば、快適なほうへ自然と流れていくプロセスではないかと思う。

もしも「死」が、「私はこんな男なんて全然好きじゃないんだから」と、意地になってチェロ奏者を死なせていたら、彼女に眠りは訪れなかった。

自分はけっこう緊張しいなのだけど、緊張ばかりしていると不眠になってしまう。気をつけたい。というか、気をゆるめたい。ほどよく。

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