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ニック・チェイター『心はこうして創られる』


タイトルからわかる通り、本書によれば、「心」は「創られる」ものだという。それは臓器のように、人の内部に「在る」ものではなく、表情や声のように、その都度「創造される」類のものだというのだ。

英語の原題は the mind is flat 、日本語にすれば「心は平ら」。本文中では「心には表面しかない」等と訳されている。その意味は、心には「深層」とか「奥行き」のようなものはない、ということだ。



心理学や神経学の分野での実験がいくつも紹介される。それらが証明しているようにみえるのは、私たちが「心」についてもっているイメージが、いかに事実に反しているか、ということだ。

そうした直感に反する実験結果を並べてみて、得られるひとつの結論が「心には表面しかない」である。そこに奥行きはない。

たとえば「信念」とは、人が心の「奥底」でいつも携えている、というようなものではない。「信念」とは、いつもそれを感じる直前に、その場で創作された実感でしかないのだという。そうは思えないが、その「そうは思えない」というのものイリュージョンの一部なのだ。と、いうのが本書の主張になる。



印象に残っているのは、「比喩」に関する章。本書で繰り返し語られることのひとつは、「脳は即興機械だ」ということ。その即興芸のひとつが比喩なのだ。アナロジー、メタファー、なにかを別のなにかに喩える、見立てること。

たとえば、「空気中の分子のふるまい」を「ビリヤード」に喩える、という比喩。動き回るビリヤード球を、狭いスペースに押し込めば、球同士の衝突の回数は増える。気圧とはそうしたものだ。

この比喩(アナロジー、あるいはモデル)は肉眼で視ることのできない「空気」とか「分子」といったものを、別の視覚的なイメージ(ビリヤード台とその球)に喩えることで、頭のなかで扱えるようにする技法である。

イメージできないものは、検証することも難しい。重要なのは「空気」とは「ビリヤード台」ではないし(空気には緑色のマットが敷かれたりしてない)、「ビリヤード球」は「個々の分子」ではない(ビリヤード球は窒素とか酸素とかで出来てない)にもかかわらず、それが理解を助けるということだ。



「犬」という文字がある。これは、動物の〈犬〉を意味しているが、〈犬〉そのものではない。動物の〈犬〉は吠えたりヨダレを垂らしたりするが、紙に「犬」と書いたからといって、それが吠え始めたりあなたに懐いたりすることは(残念ながら)ない。

そんなのは当たり前の話なのだけど、僕が不思議なのは、「犬」はどうみても〈犬〉じゃないのに、その文字をみて〈犬〉をイメージできることだ。ちょうど、ビリヤードと空気の動きみたいに。

思うに、言葉とは、それ自体が「比喩的なもの」なのだろう。「記号」はそれ自体が〈記号〉だし、「文字」は〈文字〉だったりするけども、そういうものを除けば、言葉はほとんどの場合、意味するものと異なる。「犬」は〈犬〉そのものではないし、「リンゴ」は〈リンゴ〉そのものではない。

たとえば、「比喩でなく」という表現すら、ひとつの比喩なのだ。



本書の「心には表面しかない」という説は、たとえば精神分析で扱われるような「無意識」の存在を否定する。心には深層なんてないのだから、無意識の居場所はない。我々が「無意識」と思っているものは、「表面」に映し出される像、即興で創作された実感に過ぎない。

意識以前にあるものは、感覚の未編集の生データのようなもので、そこには一貫したストーリーのある「幼少期のトラウマ体験」の反響みたいなものはないのだ。

だから、「無意識下での思考によって得られる深い洞察」みたいなものものない。思考もまた、表面だけの存在である。閃きの背後には、純粋に非-意識的、非-心的な脳の計算プロセスしかない。



僕はこの本の説には全体的に納得というか、説得されたような気分でいる。のだけれども、今後も「無意識」という言葉を使い続けると思う。閃きの背後に無意識の働きがある、とか言ったり、フロイトとかラカンとかを読んだりする(読んで理解できるかはともかく)だろうと思う。

というのは、「心は表面しかない」もまた、ひとつの(有効な)比喩である、と思うからだ。

ビリヤード台のアナロジーは、物理現象についての理解を助ける。だからといって、それ以後、「空気中の分子はビリヤード球なのだ」ということにはならない。

日本語で「リンゴ」というものを、英語では「apple」と呼ぶ。それを知ったから、明日からは「apple」のみを用いて、「リンゴ」は使わない、とはならない。日本語と英語とは、たんに異なる言語であるだけで、矛盾しているようなものでもないし、二律背反的なものでもない。

意識以前のプロセスを、「感覚入力の並列的なデータ処理であり、非-意識的なものであって、心の働きではない」というのと、「無意識」と呼ぶのとで、日常生活のうえで特に違いはないように思う。というか、個人的には「無意識」のほうが便利だと思う。

複数の言語を知っていると、複数のジョークが楽しめる。同じように、「心」に対して、複数の比喩的な捉え方ができるほうが、シンプルに楽しいと思いませんか? 僕は思います。



「心は表面しかない」もまた、ひとつの比喩だ。その比喩は、科学的な知見による裏付けがあって、けっこう頼もしい。だからといって、非-科学的な比喩を捨てるべきだ、とは自分は思わない。理由は先に述べたとおり。そのほうが楽しいのだ。

といっても、「楽しい」というだけではない。複数の視座をもつほうが、何かについて、よく知ることができるように思うからだ。

あるものごとに対する複数の視座からの眺め、複数の比喩からの認識とは、言い換えれば、あるものについての複数の側面のことだ。人の顔で喩えるなら、色んな種類の表情、となるかもしれない。

本書は、「心」の新しい表情をみせてくれる一冊だった。この本を読んだおかけで、前より楽しくなれるんじゃないか、という気がする。

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