空が青いからに決まってるじゃない

よく晴れた伊豆の、8月の海を思い出す。

足早にバスを降りるなり、コンクリートの階段がわたしたちを砂浜へと導いた。ビーチサンダルを突っかけた素足にちいさな石ころのひとつずつが絡みついてくるのを感じながら、よいしょ。登り切るとそこには、藍染の桶をひっくり返したみたいな青空と、珊瑚の屑でできた目が痛くなるほどに白い砂浜が一面に広がっていて、視界はそのコントラストに圧倒される。

歓声を上げ、手に持っていたタオルやらサングラスやらを放り出して、一目散に海へ走っていく仲間たち。なおも海と空とのコントラストに見惚れるわたしを彼や彼女が追い抜く。そのたびにわたしの肩で小さく風が舞って、伊豆の熱く篭った海の匂いが、鼻へと運ばれてくるのを感じる。

泳ぐことができないわけではないのだけれど、海に入っていくことには抵抗がある。なぜだかゆれる水面を見つめていると不安な気持ちが押し寄せてくるし、なにより水に濡れることで、アイロンの熱を借りてまっすぐまっすぐ伸ばした前髪が天然パーマに負けてしまうのが怖かった。し、ほとんど裸と相違ない格好で人前に出るなんて、わたしには考えるだけでくらくらしてしまう行為だ。

幸いなことにわたしは21歳だったから、仲間たちの精神年齢の高さを頼みにすることができた。すこし海に入ることを断ったくらいでノリが悪いと陰口を叩かれることなどないだろうとたかを括って、砂浜の最も階段ぎわにひっそりたたずむ自動販売機へと向かう。ラインナップを一巡してからちょっと考えて、やっぱりいつものように、ブラックコーヒーの350mlを選んだ。

思ったよりもキャップが固い。歩き出したはいいものの、まだ、開けられそうにない。苦戦していると、おーい、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえて顔をそちらにやると、海へ入ることを選ばなかったふたりが大きく、手を振っていた。わたしのように見た目の理由から海へ入ろうとしなかったわけではないのだろうけれど、それでも砂浜にひとりでいなくてもいいことは、どこかうれしかった。一人で聴く音楽も一人で観る映画も一人で読む小説も、それぞれひとりでするからこその良さがある。けれど片足をおなじ共同体につっこむ、自分以外の全員を目の前にしてそれをするのは、なんだか違うんじゃないかという気がすこし、していたから。

ふたりは大きく広げたストライプのビニールシートにあぐらをかいて、Bluetoothのスピーカーから山下達郎を流しながら、缶のビールを飲んでいた。このあとまたバスに乗るのに、ビールなんて飲んだら車酔いしちゃうよなんて笑いながら隣に腰掛けると、さっきまでの苦労は何処へやら、いとも簡単にコーヒーのキャップを開けることができて、すこし笑ってしまう。ひとりで笑うおかしな女にならないように、口角だけで、笑ったのだけれど。

仲間たちの荷物で四隅を押さえているから、しばらく3人でぼんやりしていると、喉が渇いたり日焼け止めが落ちてきたのを気にしたりし始めた何人かが、入れ替わり立ち替わり、ビニールシートを訪れる。ある人は海の感想を伝え、またある人は山下達郎にちょっと浸り、またある人はひと口ビール頂戴とねだりながら。

ビニールシートの番人となったわたしたち3人。いちばん前髪が長かったひとりが、ああ、と小さく声を漏らして珍しく前髪をかきあげながら顔を天へ向け、わたしたちの頭上に広がる嘘みたいな青空を、真正面から仰ぐ。

「空が、青いなあ」

誰に向けてでもなさそうに力なくつぶやいて、俯く。しばらくその体勢のまま、わたしたちは誰も喋らない。喉の奥に残るコーヒーの苦い香り、はしゃぐ仲間たちの笑い声、陽光をうけて白くきらめく水面。前髪のながいひとりがポケットをがさり、探しながらなにか鼻歌を口ずさむ。すこしして手元を見ると、頭上に終わりなく広がる青空とおなじような青さのライターと、コンビニでは見たことのないパッケージのタバコ。エコー、と書かれたそのちいさなひと箱を、探していたのだということがわかる。

ライターがカチカチ鳴って、大きな息遣い。ややあって、青空へ消えてゆく煙。

その間にもビニールシートへ、何人かがやってくる。しばらくして、髪の毛のゴムが切れてしまったらしくここへやってきた女の子ふたりが、煙を感じて思い切り、顔をしかめる。くさいくさいと顔の前で煙を払って、不満そうに、顔をのけぞらせながら。

「なんでこんなところに来てまで、タバコなんて吸ってんの」

「なんで吸うのかなんてそんなの、」

ながい前髪を揺らしてちょっと笑って、得意げに煙をおおきく、おおきく吐き出した。

「空が青いからに決まってるじゃない」

わたしはそのとき終電よりひとつ前の電車に揺られていて、すこしの眠気を感じながら山下達郎を聴いていた。指先だけでn回聴いたリズムを取っていると、最寄駅よりもひとつ前の駅でドアが開いたときに、なぜだろうか、ここで降りた方がいいような気がした。幸い(なのかはわからないけれど)、目の前には誰も立っていなかったのでその一瞬の感覚に従って足を蹴り出して、ホームに降り立った。

さて、どうしたものか。

とりあえず、改札を出よう。グーグルマップを開くと、自宅までは歩いて30分もかからないことを教えてくれた。同時に、グーグルマップを1秒で参照することができなかった先代の人たちは、夜中のちょっと手前くらいの時間に突然、ここで降りるべきだという啓示を受けてしまったら、どうやって家まで帰ったんだろうなんてことが思われて、ちょっと気が遠くなる。

暗い夜道、たまに夜道の隅を丸く照らす街灯。なんだかこうも暗い街をひとり、てくてく歩いていると、まるでこの暗闇の中に立っているのはわたしだけで、わたし以外の全員はここを照らす街灯の向こう側にいて、一度も暗闇を覗くことがないまま、ずっとおなじ時間を並行に生きているんじゃないかという気持ちになってしまう。

心なしか、歩みが早くなる。この暗い夜道なら、もういっそピアノが踊るインストに耳を傾けでもしている方がいいのかもしれない。22回、四季を一周してもなお、秋の入り口に聴くべき音楽の見当がつかないから困ったものだ。Apple Musicに入っているアルバムを眺めながら、いっそインスタグラムのストーリーで「今わたしに聴いて欲しい音楽ある?」なんて質問を投げてしまおうか。

まあ、そんなストーリー、載せるわけがないんだけれど。次第にとっ散らかってきた頭の中がうるさくて画面から顔を上げると、そこは十字路だった。まっすぐ進めば自宅だということはわかっていたのだけれど、なんとなく、右に折れたところのコンビニが目に入る。暗闇とそれを照らす街灯と永遠に伸びる路地と、そこに立ちすくむわたし。なんだかその空間では、コンビニだけが暗闇とか街頭とかの外側にいて、そこにあるべき色を正しく与えているような気がしたのだ。

自動ドアが開いて、聴き慣れた入店音。なにを買いにきたわけでもないからとりあえず店内を一周する。暑い暑いと言いながらたべる牧場ミルクを手にとっても違和感がなかったのは、もう2ヶ月も前のことらしい。この2ヶ月間でなにか自分は成長することができていたかしら。

別にお腹が空いているわけでもない。やれやれ、冷凍ケースからアイスコーヒーのカップを手に取ってレジに向かう。この時間だから店員さんはワンオペで店内を回していて、忙しいだろうにすみませんみたいな顔してレジに近づくと、パンの陳列をしていた店員さんが小走りでお決まりですかと問いかけてくれる。

袋、結構です。言いかけて、店員さんのうしろの、タバコの棚が目に入る。きれいに並べられたタバコは番号を振られて、めいめいにきれいな色彩を放ちながら、わりに存在感を放っていた。

「エコー、ひと箱、いただけますか」

気がつくとぽつり、そう口走っていた。店員さんは番号で頼まない客に慣れっこなのか、かしこまりましたと機械的にしかし丁寧に棚へ手を伸ばし、ひと箱をわたしに差し出す。小銭を財布から出しかけてわたしはライターを持ってすらいないことに気がついて、あわててこれもお願いしますとレジの横にあったライターをひとつ、手に取った。お会計をすませてから気がついたのだけれど、あわてて手にしたわりにそのライターはあの昼下がりの伊豆の青空とそっくりだった。透き通ったライターから向こうを透かしてみると暗いばかりの路地も青く光って、なんだかいい買い物をしたみたいな気持ちになった。

コンビニを出てベンチに腰掛け、アイスコーヒーをひと口飲む。ふつうの箱よりもいくらか小さいエコーを手のひらに載せて、まじまじと見つめる。案外、簡単に手に入ってしまった。

わたしはきっと、ずっと羨ましかったのだと思う。

海へアイロンで伸ばした前髪を浸けたあとのうねりを心配したり、水着を着た姿が他人の目にどう映るかを考えたり、海へ入らないことでみんながどう思うかを気にして生理なんだよねと嘘をついたりする、だなんて考えもしないようにどっしりと構えて、ゆっくりゆっくり、雄大にタバコの煙を吐くことのできた、あの子が。

そんなの、空が青いからに決まってるじゃないなんて笑いながら、自分に見える色が、自分の吸う息が、吐く煙が、正解だということを信じて疑わないような、その得意げな笑顔が。

タバコを吸ってみたらわたしも、この暗いだけの路地を走り抜けて、どうしようもなく青く広がるその晴天を仰ぐことができるかもしれないと思ったのだ。

けれどエコーの苦い煙はわたしの決して大きくない体へゆっくりゆっくり入っていく。まるでブラックコーヒーに落とした白いミルクがほそくゆるやかにたゆたうみたいに、わたしの中をゆっくり、染める。

タバコを吸うなんてことは、試してみたらお酒とかセックスとかと一緒で、案外、本当に大したことがなかった。

その青さをわたしはまだ見ることができないのだなと、すこし悲しくなるほどに、本当に、大したことがなかった。

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