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2021/6/14 「感覚と経験と知識、そして共有」

いつの日かドライアイスを触った時の感覚、今日ドライアイスを触った時の感覚、明日ドライアイスを触った時の感覚。これらは完全一致せず、ずれを持って重なっていき、経験となる。

しかし、知識とは何であるか。知識とは、それぞれの感覚がずれながらも経験として重なっていった先に現れる、すべてが重なりえたところの一部分だと考えられる。「若干痛い」「ちょっと痛い」「すっごく痛い」が重なっていった時の、「痛い」に当たる感覚が知識となる筈である。つまり、どの感覚もが持ち合わせていた部分が知識となる。どの感覚もが持ちわせていたものだからこそ、共有が可能になるのではないだろうか。

しかし、この知識化された感覚は、刹那に出会うことのできた感覚全体のたった一部分。それぞれの感覚が唯一すべて重なるところの一点だということである。これが一般化され、普通だとされ、教育により知識として共有されていくことは甚だ問題ではないだろうか。

自分が出会うことのできた感覚の一部分、下手すれば部分とも言えないような全体の中の一点でしかない感覚、それがある一つの事象に対する我々人間の当たり前の感覚であるとされること、さらには、教育の場で教えられる側の絶対的な存在ともいえる「先生」からこれを教わることは、「教わったものがすべてである」という危険な領域に教わる者達を誘ってしまうだろう。したがって、皆に共有され得る知識とは、刹那に生じる感覚を脅かす存在だと考えられる。

また、すべての感覚が持ちわせていたという点で、これは、この感覚が生じる時の条件に付属されているものにすぎないということは言えないだろうか。感覚の中の個別的ではない部分、つまり、どの刹那の感覚もが皆持ち合わせていた部分。これは皆が持ち合わせていたからこそ共有が可能なのであって、反対に言えば、皆が持ち合わせていたのだから共有ができるのは当然であるということにもなりかねない。

ある意味、共有できるのは当然だとも言える知識化された感覚を、改めて全体に共有しようとすることに、必要以上に固執することには、どのような価値があるのだろうか。(必要とは、危機回避とか効率とかそういうことである。)現代の我々はこの「共有」や「共有の持つ利点」にあまりに支配され、囚われ過ぎではないだろうか。

それよりも、せっかく「そこ」にいた「自分」だから出会えた感覚を大事にすることや、誰とも共有できない・説明することのできない自分だけの感覚の大部分をできないなりに、さらには、できないとわかっていながらも、何とか他者に伝えようとする、理解しようとすることの方がよっぽども魅力的で愛のある、価値のある行為だと言えるのではないだろうか。


またね👋

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