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“競争”からの卒業
もう、競争社会ではないけれど。
一度根づいてしまったものは、なかなかなくならないものです。
以前、大学を卒業して数年の後輩が、
「高校の同級生たちはすでに家庭をもって家も建てているのに、自分は恋人すらいない」
と嘆いていたことがありました。
しかも、同級生たちは高校卒業後すぐに働き始めた人も多かったようで、「自分は大学に行ったから遅れをとってしまった」とのこと。
その時すでに大学を卒業してかなり時間が経っていたわたしからみれば他愛もないことです。
「あのね、それ、あたりまえのことだから。社会に出たら、いつまでも同級生と同じ歩調で歩くなんて無理なこと。違う人生なんだからね。大学行かせてもらってよかったじゃない。今の仕事に就くには必要な学歴と資格がとれたんだから。あと5年、10年すれば今の悩みなんて小さいものだと感じるよ。」
残念ながらわたしの言葉は響かなかったようです。
だけど、わたしだって人のこと言えません。
自分が楽しめていない仕事をしているときはスキルアップを目指す気力なんてありませんでした。
毎日仕事に行くだけで精一杯です。
そんなときに「わたし、この仕事がしたかったんです!」と言って入ってきた後輩がどんどんスキルアップできるようなことに取り組んでいるのを間近でみると、内心焦っていたように思います。
後輩に先を越されるのは居心地が悪かったのです。
競争とは比較することから始まります。
「あの人はこれを持っているのにわたしは持っていない」という意識から。
人には『個性』があるのだから、比較することなんて意味がないとわかってはいても、比較することでしか自分の居場所を確認できていませんでした。
そもそも、個性ってなんでしょう?
本当に誰でも持っているものなんでしょうか?
どうやって表現するものなんでしょう?
この問いに対するわたしの答え。
『個性』とは組み合わせである
『個性』という言葉を使って表現するときは、たいてい“人とは違ったことをする特別な人”を指します。
しかし、それではわたしは当てはまらない。
わたしは特別な人ではない。
個性なんてない。
わたしは普通の人間だ。
そう思ってしまうのです。
ここで、『個性とは組み合わせ』と解釈したらどうでしょう。
ひとつ例をあげます。
うちの近所に花屋とカフェがひとつになっているお店があります。
お茶を飲むこともできるし、花を買うこともできるのです。
このお店、花だけの専門店より扱っている花の種類は少ないかもしれません。
でも、「お花を愛でながらコーヒーを飲めるって気分がいいな」とか「手入れが面倒で植物を家に置けないけれど、たまには花に囲まれたい」というような人の希望を叶えてくれる場所です。
ひとつひとつは他のお店にはかなわないけれど、組み合わせることで違うものができあがった。
これを『個性』と呼ぶ。
これなら、「誰でも個性をもっている」という考えも腑に落ちます。
私自身も秀でたものはありません。
しかし、わたしという入れ物のなかにいろんなものが詰まっています。
どこで使うのかわからない知識や、痛い経験も含めて。
それが合わさってこの世界で唯一無二の存在となっているとしたら・・・。勇気づけられます。
以前、ある人がこんなことを言っていました。
これからは、ひとつのことに長い時間を費やしてスペシャリストを目指すというよりは、「わたしこんなこともできます」「あんなこともできます」といった軽い感じの人に、お声がかかるようになる。
だから、誰もが輝ける時代になるとのこと。
今までは、一部の秀でた人、権力のある人、財力がある人が社会を動かし、多くの一般人がそれに従っていました。
その力を持っている人たちが間違っていたわけではありません。
他の人にはできない努力もしてきたのですから。
しかし、これからは個人が自由に活動し、自分なりの幸せを求める時代です。
そのとき、「わたしの個性ってなんだろう」という疑問に必ずぶち当たります。
そんなときは、『経験』『技術』『性格』『興味』そういったものを棚卸しして、組み合わせていく。
そうすれば、他人と競争したり比較するといったことにこころを奪われずにマイペースに生きていける。
そう思っています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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