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本よみ日記 鉛筆で書くということ

夫婦ともども本よみである。家にはたくさんの本があり、9割は夫の本だ。3冊の本と4冊の雑誌が私の分である。

自分のものはすべて活躍してほしいという気質があることに気づいてからは、好きだけど長いあいだ開いてない本を持ち続けるのが忍びなくなってきた。それでもなお、もう少しいて欲しいと思う本がいま棚にある。

『あの頃』武田百合子
『河岸忘日抄』堀江敏幸
『文にあたる』牟田都子
 昔のクウネル4冊

牟田さんを知ったのは「北欧、暮らしの道具店」のyoutubeからだった。佇まいのよい印象、本棚に昔のクウネルがずらりと見え、気になって調べたところ昨年本を出されていた。

本を読んでいて誤植があると、散歩をしていて小石に蹴つまずいたような気持ちになる、といわれたことがあります。転ぶまでにはいたらなくてもひやりとして、それまでの静けさは消えてしまい、容易には戻ってこない。

『文にあたる』牟田都子

本はかならずしも意図したように読まれるとは限らないこと、本は人間よりも長く生きることを思えば、すべての本に校正が入っていてほしい、すべての本が等しく手をかけてつくられていてほしい、と続く。

翻訳家の方が悪文をきれいにしないように気を配ることやZINE、リトルプレスなどの小さな出版物の「野の言葉」の自由に惹かれつつ、

ゲラ上では「野の言葉」をそのままに留めておきたいと思っても、仕事である以上「念のため」鉛筆を入れるべきかと迷う。入れれば「直って」しまう。直さなくていいのに、と校正者がいうのはほめられたことではないのでしょうか。著者はもっと自分の言葉に頑固であっていい。譲らなくていい。校正の鉛筆は絶対ではありません。不用と思うなら消していい。そのために鉛筆で書いているのだから。

『文にあたる』牟田都子

校正者として新人作家に鉛筆を入れざる得ないけれど、本当はこう思っていますと、静かながら強い意思が感じられ印象に残った。

夏葉社の島田潤一郎さんの本を読んだ時も思ったが、本は人だな、人そのものが出るなと『文にあたる』を読んでつくづく思う。youtubeで見た牟田さんは暮らしぶりも文章の佇まいもなんともよかった。






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