私は人を傷つける。

ネガティブな言葉だろうか。

でも、しっかりと心に留めておきたい。


あ、この人は無意識に人を傷つけるタイプだな。と思う人がいる。

悲しいことに、相手にはその傷の痛みが全く伝わらない。傷を負わせたことさえも気付かず、

むしろ、意図的に傷付けようとしていない分、こちらがみじめにまでなってくる。


意識的に傷つけてしまう人もいる。

大半は、近しい人に対する傷付け方は知っていて、それを行使するかどうかはさておき、いつでも傷つけられる状態にあるのが人間ってものなんだと思う。


前者には、自分の知らないところで相手を傷つけてしまう悲しみが、

後者には、自分の小ささゆえ、相手を傷つけてしまう悲しみがある。


どちらがより悪いだとか、

より悲しいだとか。

考えてみようとしたけれど意味がなさそうなのであきらめた。

でも、どちらもとても悲しいことには変わりない。


人間は弱い生き物で、

心身がネガティブな状態に陥ると、いや、陥りかけるだけでも、それらに支配されて周りが見えなくなってしまう。

いつもは少し意識したら分かるはずの人を傷つけてしまう言動が、意識するよりも先に表に放たれてしまう。

「周りが見えない」は「心を亡くす」と同義だ。


どうして人間は

負の感情が湧き出た時に、攻撃的になるように仕組まれているのだろう。

ネガティブな時こそ、優しくなれるように仕組んでくれたら良かったのに。


“人間のバグ”としか言いようがない。


少し考えてみた。

なぜそんな”人間のバグ”が起こってしまうのか。


色々と考えた結果、ひとつは、動物が生きていくために必要だったから。

弱肉強食の世界にある人間以外の動物は、敵を威嚇し攻撃するが、

残念ながら人間にもその性質が残ってしまったのでは?という考えだ。


動物は生き残るために周囲を攻撃せざるを得ないけれど、

現代の人間にはその必要があるのだろうか?


そう思うと、人間なのに野性的な攻撃をしてしまう自分が馬鹿らしく思えた。

ネガティブな時こそ、人間らしく優しさを持ち合わせていたい。


そうとは言っても、

そんな時に限って攻撃してしまうのもまた人間らしい部分である。


周りに自分をアピールするため、

自己正当化のため、

相手の愛情を試すため、


そんないかにも人間らしい理由で、思いやりを欠いて、周りの人達を傷つけてしまう。

そして、これらの根っこにある心の問題をケアしなければ、何も解決しないとつくづく思う。


例の誹謗中傷の悲しい出来事だって、

強すぎる正義感云々はまた少しだけ別問題の様な気もするけれど、結局はみんな心を病んでいて正しい判断ができなかったんだろう。

(元々腐ってる人もいるんだろうが、それはもっともっと根深い問題)


やはりニュースは嫌いだ。

人間の醜い部分ばかりが報道されて、

喉のあたりが苦しくなる。


性善説か性悪説か。

書く予定には無かったけれど、ついでに残しておこう。

前述した内容と矛盾する部分があるかもしれないが、そこは大目に見てほしい。

書きたかったことは大体書き終えているので、私の文章に疲れてしまった方はどうぞこの辺りで休憩を。笑


さて、今までの私は、

絶対性善説!みんな優しい心を持っているはず!

実際に周りは良い人ばかりだし!自分も優しい!

と考えていた。

まぁ厳密に言うと、深く考えたことはなかったけれどそう信じたかったのは確かだ。


でも今、色々と想い考える中で、少し変わってきた。


<人間は簡単に悪になりうる弱い生き物だ>


性悪説!とはまだ断言はしきれないが、希望を持った性悪説とでも言おうか、

「性・善を目指している悪・説」の様なイメージ。


(頭の中のひとりごと。

善を目指している時点で善な気もするし、悪は本性ではなく可能性としてあるだけだとも信じたいから、悪という言葉が適切かどうか自分でも分からないけれど語彙力が乏しすぎる!本性が善である部分ももちろんあるだろうし、「性・善悪両方・説」派でもあるかなとも思う。まわりくど!

さておき。)


実際に調べてみると

性悪説は、本性が悪<弱い存在>なんだから自分の意思で努力して善になろう。

というのが本来の意味らしい。

恥ずかしながら知らなかった。


対して性善説は、

本性は善<道徳的に正しい>だから、努力を惜しまなければ善で居続けられる。

とのこと。


驚いたのは、

性悪説も性善説も、善で在ることを目指している点。


他人を指す時ばかりに性説が持ち出される場面に多く出会してきたけれど、

本来は他人ではなく、自分に向けて唱えるべきものなんだろう。

自分の受け取り方次第で、それを信じたら生きていける、道しるべとして。


人を愛する時、

愛する喜びとともに、自分が相手を傷つけてしまうのではないかという恐怖に襲われて仕方がない時がある。

そしてその恐怖が現実になってしまった時、

放った矢が相手を貫通したかと思えば、鏡の様に跳ね返り自分にもまた突き刺さる。

ごめんと謝るにもただただ免罪符を請うている様で、また違う方法で誠実であることを心がけるしかできない。

そんなことを感じる経験がしばしばあった。


「私は人を傷付ける」

自覚は痛いぐらいしてきたが、受け止めるまでには至っていなかった。

でも、その可能性を持っているということを忘れないでいたい。

なんとなく、これまでの考え経て、受け止められる様になった気がするから。



今日はここまで。思いの外長くなったなあ。

倫理だとか哲学だとか、宗教の教えだとか。

色々な場で見聞きしたことがあるけれど、

やっぱり実体験の想いが無いと本当の意味で理解できないんだなと実感した。


読んで分かった気にならないこと。

日々の生活の中に気付きのアンテナを散りばめて、自身で考えを深めていきたい。


〜読んでくださってありがとうございました。〜


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?