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【徳島の右下生活】#138日目 習慣にしていること

今どう感じてるかを考えること

いつどこで誰といても、「今自分がどうしたいか」を優先したいと考えてます。
所謂、ジコチューと言われても仕方ない。自分の気持ちを優先した方が自分の人生のためになると思っているから、そう言われても仕方ない。
でも読んでほしい(聞いてほしい)。
いつ、どこで、誰と、いてもだ。
誰かに自分がどうしたいか」もそこには含まれる。
つまり書きたいこと(言いたいこと)は、「本当に想ってあなたにしたいんだ」ってこと。流されてお酒を注いだり、その場の空気から席を譲ったり、気まずくて話しかけるわけではない。「自分がどうしたいか」を自分に問うのだ。
お酒を注ぎたいか?席を譲りたいか?話しかけたいか?
自分にドンと突きつけるのだ。
だが、そういう問いが浮かぶ時点で、私には応えはすでに決まっているようなもの。「その問いが突きつけられた時、後ろを向いて去れるか?」と言う問いも同時に付いてくるからな。
だから、最初の問いに気づいた時点でもう動かざるを得ない状況と言うわけ。
これが私の習慣。

には技術がいる

それは「想いを言語化」できるか否か。
言語化できない場合、無視なりシカトなりできる。(言語化できれば気づいた時点になってしまうから。)
この言語化は一生涯学び続けるしか道はないのだと、それこそ気づいてしまっている。ただ、学んだところで想いを言語化できるだけ。想いを言語化できるだけでそれ以上は未知。良ければ他者や社会に評価してもらえるだろう。もしくはジコチューと言われることもあるだろうし、そもそも気づかれないことがほとんどだろう。
何の意味があるかなんて分かりはしない。

これってどんなことにも言える。
今してる仕事もどうだろう?
私は基本草抜きなどの掃除をしているのだけれども、自然破壊じゃないか?とか、私も自然の一部なら自然破壊とは言わないか、摂理か?とか、抜いてもまた土になって生えてくるのに意味あるだろうか?とか思う。
何の意味があるかなんて分からない。

だから、気づくしかないのだ。
今してることの意味に気づいたり、自分の想いや問いに気づいたり、相手の配慮に気づいたり。
いつも私たちは試されてる。
自然から気づくかどうかを。

でも気づいたところで何もありはしない。
でも気づけるから自分の周辺くらいは幸せにできるんじゃないかな、と思う。

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