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学ぶことの楽しさとは、見えなかったことが見えるようになること

私のnoteでよく引き合いに出させていただくビリギャルの本人である小林さやかさんは、現在コロンビア大学大学院で認知科学を学ばれている。

認知科学を学ぼうと思ったきっかけは、「ビリギャルを科学的に説明したい」と思ったからだという(下の動画の3:00〜)。

認知科学を学んでいると、「だからあの時私はああできたんだ」と思えることがあるのだそう。これは言い換えると、「見えなかったことが見えるようになる」ということだ。

学ぶことで「見えなかったことが見えるようになる」感覚を得るためには、学びを実体験に落とし込めることが条件になる。

だから、自分に関心のないことを学ぶ場合と比べて、自分に関心があることを学ぶ方が楽しい理由の本質とは、関心自体が実体験から生じるものであり、実体験から関心が生じ、学びたくなり、学んで、その学びを実体験と照らし合わせ、納得し、また関心が生まれ・・みたいな、

実体験  →  関心  →  学び  →  実体験  →  関心  →  学び・・・

のようなポジティブサイクルが循環していくからであると思う。

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ずっと勉強嫌いだった私は、最近になってようやく「学ぶことって楽しいかも」と感じるようになった。

それって何がきっかけだったんだろう?とずっと考えているけれど、今の時点での答えは、「何かを知ることで見えなかったことが見えるようになると、なんか心が感動する瞬間がある」からだ。

たとえば日常生活のなかで、「なんでこうなんだろう?」と疑問が生じることは誰にでもある。

だけど普通は「まあそういうもんか」となんとなく受け流して、その疑問を解消することなく見過ごしてしまう。

しかしその「なんで?」を見過ごすことなく深堀りし続けた時に、発見がありモヤモヤが消えることこそが、学ぶことの楽しさなのだと思う。

なのに義務教育とか高校までの学びの場合、そもそもそこでの学びは「なんで?」が起点になっていない。

「こうなんです」と答えだけを教えられたり、答えの導き方を教えられるだけで、“なぜその答えを求める必要があるのか” を教えてはもらえない。

「なんで?」が起点ではないからこそ、
それを学ぶことの意味ってなに?
目的ってなに?
それを学ぶことで私がどんなふうに変わるの?
世界がどんなふうに見えるの?
ということを知る必要があるのに。

学ぶことに意味や理由があって、学んだ先にある未来が想像できて、そこではじめて「だから私は学ぶんだ」と自分の選択と行動に納得ができてこそ、学ぶことがきっと楽しくなるし、本当に「学びたい」と能動的に、意欲的になれるはずだ。

「やれ」と言われて「はい、やります」と素直に飲み込めない人は、“ひねくれ者” と呼ばれたりする。

たとえ「なんで?」が起点でなくても、「これを学ばなければならないのです」と言われて「はい、わかりました」と、何も文句を言わない人が良しとされるのが、残念ながら日本の文化だ。

だけど「なぜ学ぶのか?」「学んだ先に何があるのか?」をちゃんと考えられる人の方が、むしろ論理的じゃないか?

「学ぶことの意味もわからないし、学んだからどうなるという結果も想像できない。だけど勉強はしなきゃいけないらしいからする。」

そっちの方が全然論理的じゃないと思う。

そんなふうに少なくとも高校までは、もしくは大学で“研究をする”という段階に至るまでは、「なんで?」を起点に学ぶ習慣が私たち日本の学生には培われにくい。

しかし前述のように、私の考えでは、学びとは「なんで?」を起点にすることで楽しくなるものだ。

ということは、やはり学ぶことの楽しさを実感できるのは、「なんで?」を起点にして行う “研究をする” ことからがスタートなのではないだろうか(めっちゃ賛否両論ありそうだけど)。

だから私が学ぶことの楽しさを実感するタイミングが今になったのは、遅咲きのようで、割と妥当なタイミングなのかもしれない。


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