文系の研究とは、日常に起きている出来事の抽象度を上げて考えること
これはあくまで私の個人的な定義だが、文系の研究とは、日常に起きている出来事の抽象度を上げて解釈し、考えることなのではないだろうか。
大学院に入学してはや半年以上の月日が過ぎたが、自分がちゃんと研究をできているのか、それとも研究ごっこをしているだけなのかはわからないし、そもそも「研究」の定義自体があやふやだ。
私は理系の研究をしたことがないので、勝手にそれを説明できる立場ではないしできないが、イメージでいうと、理系の研究とは実験をして結果が出るか出ないかという、研究成果が目に見える形であらわれるという印象がある。
それに対して文系の研究とは、基本的には目に見えない事象を扱い、だからこそそれを研究してまで深く考えることの意義は、一般的には感じられにくい(ような気がする)。
とはいえ、2019年には「科学技術基本法」の改定が行われ、自然科学の研究のみならず社会科学の研究の必要性は少しずつ認められ始めているようだ。
理系分野における技術開発だけでなく、文系分野の知識も組み合わせたモノとコトの両輪が、イノベーションには必要だ。
理系が生み出した「技術」は介入の道具となるが、その介入を行う上での「プロセス設計」にこそ、文系の知識が必要となる。
しかしながら、“抽象的かつ実態として目に見えない” という文系研究のハンディは、依然として存在している。
普通に日々を過ごすなかでは目に留めもしなかった事象に目に留め、地続きに続く日常のほんの一場面を切り取って、深く深くまで深ぼるのが文系の研究だ。
ここで、その一例を一つあげてみたい。
たとえば、私たちは取り組む課題によって体感時間が異なることを、日常の中で体感している。
「なんで大学で講義を受けている時間は長く感じるのに、ゲームをしているときの時間は一瞬で過ぎてしまうんだろう」というのは、きっと誰しもが一度は抱いたことのある疑問だろう。
これについては、心理学者のチクセントミハイが「フロー」という理論で説明している。
フローになりやすい条件は、その課題が自分にとって適度な難しさと難易度であることであり、その場合に、内発的な動機によって取り組むことが可能となるとされている。
フロー理論は、スポーツ選手がより良いパフォーマンスを目指す際に応用可能な知識となっている。つまり、文系研究から確立されたフロー理論は、「社会に役立つ知識」となっていると言っても差し支えないだろう。
「文系の研究をすることの意義とは何か?」という問いは、私自身も現在進行形で考えていることだが、この記事が少しでも文系分野で研究することを志している人の一助となることを願っている。
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