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累積KJ法 R1ラウンド「何だか気にかかる問題点について」(第2篇)/大塚

累積KJ法 R1の続きです。
前回はこちら(↓)。人間存在の基底となるカオスに目をむけ、循環の思想を大切にして、適度な欲を得る必要があると述べました。

今回は、次の図解の(3)彼我一体となる芸術への興味(4)即興音楽とスタンプで女の子の神秘性を表現、の2つについて文章化する。相対的に、芸術的(私的)な関心ごとについての内容です。

A型図解

(3) 彼我一体となる芸術への興味

(3)-1. ものづくりやカメラ撮影で、外界と一体になる

 前回の最後に書いたように、欲を適度に抑え、宇宙のなかに主体を融合する循環的実践が必要である。そのひとつとして、自然や外界からのインスピレーションをものづくりに活かしたい。
 例えば自然と生産が直接に結びつく農業によって、野菜を自ら育てたい。(自給自足の生活を確立することは、生活の自立に大きく関わる。食事が生命の維持活動の根本とも言って良いくらいの位置を占めるからである。大資本のスーパーや海外輸出の農作物に頼らずとも、生きるのに不自由しない食料を調達できる自信が欲しい。国家権力や大企業の一方的な搾取や圧力に対抗するため、畑を耕す。その耕す土地が国に管理されて、課税の対象となっているのは不条理であり対抗すべきだと思う。アーバンパーマカルチャーやゲリラ菜園などは参考になるだろう。野に這いつくばって作物の声に耳を傾け、果実を自ら味わう。またそのタネを土に蒔いて新たな生命を得ること。これこそ循環の最たるものであるように感じられる。コンテナ栽培でも良いので、各家庭が野菜を育ててみることが主体性を取り戻すきっかけになるかもしれない。さらに、自給した農作物でやりくりすることは、無限の欲望で溢れる現代人にとって驚きと一緒に受け止められるだろう。そしてなによりも、自然と一体になることが、本来人間の持つ原始的なこころを喜ばせてくれるだろう。)

 そのような自然とのたわむれのフィールドは、何も農業だけではない。ものづくりにおいてもそのようである。自分が現在住んでいる町も、自然の可能性に心を開き、さらに産業を発展すべきである。自然には無限の開きや可能性がある。しかし、人の心の様子によっては自然の雄大さに気づけないことがままある。それは現代社会の至るところで生じる問題であり、それが原因のひとつとなって今の時代では自然によって感性が育つ機会が少ない。人間のココロと自然が通じ合えていないのである。(素直な、明鏡止水の心意気が廃れている。自分の我が先に立ってしまい、主客一体の境地へ至ることが困難になっている。このようにあってほしい、という現実と遊離した自らの妄想に固執することが、自然とのスムーズな循環を遮る障害となってしまう。また、自らの我を乗り越えることは、個人レベルだけでなく組織や社会のいっそう高次の階層において更に重要となる。近代化の急速な進展により社会の構造が極度に複雑化した現代。その幾重にもつらなった巨大組織を認めつつ、自然との豊かな対話を実現するためには、集団的な主客未分への没入が求められるのだ。自己の強固な枠を現実へ無理に当てはめようとせず、外界の豊穣な渾沌性に飛び込み、柔軟な人間らしさを取り戻したい。老子の言葉にあるように、弱いものが強いのだ。)

第四十三章
天下の至柔しじゅう、天下の至堅しけん馳騁ちていし、無有むゆう無間むかんに入る。吾 ここを以て無為のえき有るを知る。不言の教え、無為の益は、天下之に及ぶことまれなり。

【現代語訳】
世のなかでこの上なくしなやかなもの、すなわち水は、
世のなかでこの上なく堅いもの、すなわち金石をも思いのままに動かし、
己れの定型をもたぬもの、すなわち水は、
どんな隙間のないところでも自由にしのびこむ。
だからわたしは、しなやかで、形にとらわれぬ生き方——無為の処世の有益さを知るのだ。
ものいわぬ教えと作為なき在り方の有益さは、世のなかでこの水に及ぶものはない。

福永光司訳『老子』ちくま学芸文庫、pp.172-173

一方で、人々のココロと外界との調和ができず、自然の持つ可能性が社会によって制限されてしまっている。(虚心に自然の可能性へ自らを投げ出し、ものづくりを発展することが求められる。自然と一体になりアート作品を作り上げる点では、磨崖仏が気になる。近くの岩に彫りつけてある不動明王を見た帰りに思いついたのは、摩崖仏こそ自然のストリートアートだということである。自然や道路、アーケードのシャッターなど外界へ密接に固着したアートに惹かれる。)

 そのような場所性に強い関心を持つことと関連して、町なかを歩いて色々と発見するのが好きである。(徒歩でゆっくりと町を巡ることで思いもしない発見が飛び込んでくるのが快感。文化人類学や民俗学への興味も関係しているのかもしれない。現地での様々な発見を素材にして、いろいろと空想するのが気持ちよい。しかし、その想像がただ頭の中でこねくりまわすだけで、何かの成果へとつなげることができず欲求不満であるのも事実だ。歩き回って自然とのふれあいや対話を蓄え、なにか有意義な作品へと昇華させたい気持ちがある。インターネットやスマホに関しても、ただ外界とは接点を持たず画面の中で完結してしまうのはダメだと思う。それでは、人間と自然との関係性が断ち切られてしまう。スマホやネットの普及には否定的でないが、自然界との循環をその人間との間に組み込めないものかと思う。)

 そして外界からの直感を受け取り、さらにそれを創造へと昇華するためには、五感を超えた全人的感覚が大切である。それは例えば、自分の体験例でいうと、人前で話してその場を一体にするのが気持ち良いことなどに表れている。20人ほどの前で自ら話している時に体感した。異質な聴衆をひとつにまとめ上げて、創造的な営みへと向かわせることは、ぞくぞくした。仏教僧の説教とも関わるのだろうか。この経験から、忘我の体験を現地で調査したいと思うようになった。忘我の境地や、主体と客体が一緒になることに興味があり、西田幾多郎のいう純粋経験の統一をフィールドで調べたい。

 (カオスの状態をより高次の秩序だった作品へ引き上げるのは、果たして一体なんだろうか。論理や芸術、感性や直感、身体動作、スポーツなどを、それぞれ単体でなく全体として発揮する必要があるのではないか。累積KJ法にて、ラウンドごとに宗教家や哲学者、政治家、科学者などの態度で作業に取り組むとよいとの言葉が気にかかる。)また、全人的な努力が必要ということは、主客の統一と宇宙科学には何か接点はあるのだろうか。(アートマンとブラフマンの結合が重要視されるときの宇宙は、科学上での宇宙と同意義であるのだろうか。宇宙科学については門外漢なので、さらに調査が必要である。)科学の話題で言えば、人工知能による主客の統一は可能だろうか。(AIによる論理的推論の答えに至った思考の道筋が不可知であることと、主客統合の状態を論理的に説明できない点は類似しているようにも思える。)

また、忘我の体験を実体的に調査することで、知識と体験を統一させるサービスを提供すべきである。KJ法などは思想から技術までが一貫したものなので、これに近い部分がある。このように、主客統一を具体的につかみ、広く応用したいという思いをもっている。そこから発展して、宗教的・哲学的なつながりが人々を結びつけ、芸術の共作や共演も人間同士を結束するという点にも関心がある。(これは、共同体の結びつきには、労働と芸術、宗教・哲学が必要だという、アナキスト・石川三四郎の主張に依っている。さらに詳しくその説を調べるべきではあるが、哲学的な思索や演劇、絵画、歌などを共に分かち合い忘我の境地に入ることが、人々を結びつける上で大切なのだろうか。パンクバンドSum41のギタリストが、「最高のライブができる時ってのは、まったく演奏の中身を覚えてない。始まったと思ったら終わっているのが、いいライブをしたときなんだ」と語っているのをMTVの番組なんかで観た記憶がある。)

 主客統一でいかに人々を一体にするかを追求したい。自分だけが悟りの境地に入るのでなく、周囲のひとや動物や植物、モノや場所までも含め、トロリとした彼我の融合を目指したい。そのために、たんなる五感以上の梵我一如の感覚を掴みたい。そして、それによって人々や世界を一体にしたい。梵我一如の感覚の例として、カメラで一瞬の間合いを切り取る心地よさがある。カメラでその瞬間を作品にするのが楽しい。それと関連して気になるのが、間をとるとは、自分の客観的な位置をぐーっとひいて見ること、というビートたけしの言葉だ。間をとることと、その場を一体にすることに何か関連があるのだろうか。カメラで撮った写真も、ただの物質を超え、その写された題材をも超えた、神秘的・魔力的なオーラを放つことが必要である。写真を見た人を惹きつけ、その周りに不思議な一体感を漂わせるのが、人間の心底に通ずる作品だと思う。ただの自己完結、自己満足に終わらず、他の人々を巻き込んでこそ主客一体の真の境地へ至ることができる。

 このようにカメラを一例とした手段で味わう梵我一如の体感を大切にしたい。(カメラの例は、機械と人間との共生へ関わる問題である。そして、ただ自分だけが梵我一如の境地に閉じこもるのでなく、それを外界のヒトやモノ、場所までをひっくるめた体験として生み出したい。)
 つまりは、カメラやものづくりでその場と一体になりたい。自然や外の世界からの直感を大切にしながら、あえての渾沌を創造的に乗り越え、自分だけでなく周りの人々や山川草木を梵我一如の境地で一体化したい。

 単調な仕事のつらさから逃れるため、作業の動きや内容にあわせて、誰ともなく歌い出すような仕事歌や民謡が面白い。(日本の伝統的な節やリズムにも興味がある。歌そのものが目的でなく、日常の中へスッと入ったところにも惹かれる。みんなで歌いながら作業をすることで一体感もでる。作業内容と唄の詞がリンクすることで、自分を取り巻く周囲の場とも強いつながりが生まれてくる。この仕事唄への興味は、のちに触れる力仕事や手仕事の衰退への危機感と深く関わる。)

 一体感と芸術表現での体験といえば、地元の祭りで踊ったときに充実感があった。踊りながら隊列で進むとき、なんともいえない爽快感があった。その場所場所で即興な動きをつくりあげる、ストリートダンスには興味がある。もともと、ダンスや踊りをするのが好きである。小学生の時から体育のダンスやソーラン節が気に入っていた。もし今からダンスを本格的に始めるとして、それは遅すぎて大変じゃないのかという思いもある。踊りで充実感を得られたように自らダンスをするのみならず、小中高生のアイドルが歌って踊る姿が好きである。(EXPG福岡校のYouTube動画は思わず何回も再生したくなるし、実際にアイドルを観に行ってもダンスや振り付けがどうかで、グループへの興味の度合いも変わってくる。ステレオ福岡が新曲を出した時、振り付けが既存曲のツギハギだったときはガッカリした。振り付けに関しては、曲調や歌詞とぴったりくる体の動きをコミカルに、神秘的に、叙情的に表現するのに惹かれる。日常の何気ない動作を踊りに見出すと、ハッとさせられて目が釘付けになる。さらに、アイドルにあわせて振りを真似て踊るのも、相手の気を引くことも含めてとても楽しい。ステレオ福岡のライブなど、アイドルと自分と隣の観客とが、同じ体の振り付きで一体になるようである。踊っているのも、男性や大人の女性より、小中高生であるのが溌剌とした若さが弾けて、より観たく思える。)

 まとめると、アイドル鑑賞やダンス、仕事唄や写真撮影、ものづくりなど、彼我一体となる芸術への興味がある。(監視社会化して小綺麗になってゆく現代社会に対抗して、人間の根本にある渾沌さを故意に引き起こし、さらにモノや義理などの循環を通して人々の主体性を復活させ、欲望を適度に満たしたい。しかしそのカオスと循環が、ただ漠とした無秩序や、終わることのない輪廻転生にとどまるのでは面白くない。芸術の創作などを通して、その無秩序をより高次の創造性へ昇華させ、悟りの境地へ進みたい。そのために、自分はもちろん周囲の人々や動植物や場所などを、梵我一如の境地へと導く全人的な感覚を、芸術などの関わりの上で掴みたいのである。)

(4) 即興音楽とスタンプで女の子の神秘性を表現

 芸術と主客統一に関しては、さらに読めない音の蠢きに即して、ギターのノイズを即興演奏するのが楽しいという実感がある。(ギターと一体になって音を出しているという感覚がやみつきになる。演奏中はどことなく敬虔な心情になる。頭を前方に引っ張られたり、体をくねらせたり、どこか憑依されているような動作をしてしまう。灰野敬二も演奏中に奇怪な動きをしている。なぜだろうか。)

 宗教的な関係では、アイドルの神秘性に魅かれる。それは、ファンのカルト的な応援のことを言うのでなく、小中高生の女の子がつくりあげる、アイドルとしての虚像と実際の学生としての実像の矛盾葛藤のなかにあるように思える。そのように神秘的な対立に悶える姿に慈しみの感情を抱く。矛盾を抱えつつも頑張る可愛い女の子をモデルに、自己表現をしたい。(一般の小中高生の女の子自身には大して興味はない。その子が雄大な自然をバックに登下校するような劇的な美しさには魅かれる。またスマホの前で自撮りをした動画に関しては、撮られる自分を意識して普段とは違う顔でカメラの前に立っており、そこには葛藤すなわち神秘が宿ると思う。)女の子の神秘を自分なりに表現したい。彼女らが持つ矛盾の生臭さを、息を呑むような美しさとともに創り上げられたら本望である。服やメイクで飾り美人の女性が素のときに見せる、人間としての現実感、たとえば排泄や鼻くそ、体臭などに覚えるフェティッシュな興奮も、この虚像と実像の矛盾にエロスを感じるからかもしれない。

 また、四角四面の融通がきかないハンコやスタンプを押すのが快感だと思うのも、ゴムや木に彫られた動かしがたい現実の物体としての絵柄を、紙に押し付けることで、無限の空想やストーリーを生み出せるからとも言える。(人間という変えようのない現実を、アイドルとしての想像的な物語によって乗り越える女の子とも関連する。ハンコやスタンプも現実に彫られた図案の限界を、他の種類のハンコとの掛け合わせや、押印する紙の印刷内容の組み合わせ、場所の違いで越えることができる。前述したギターノイズのアドリブ演奏の神秘性に関しても、物体としてのギターや、演奏する身体の限界、発せられた音の時空的な流れの制約を越えようとして、不可思議な身体感覚や動作が生じるのではないか。)

 このように、即興音楽とスタンプまたはアイドル文化などが、人間の身体やただの物体としてのリミットを突破しようとするエネルギーで女の子の神秘性すなわち矛盾葛藤を表現したい。(もちろん男性や大人の女性も同じような葛藤を持っているのは確かである。一方で、日本の文化と社会においてより「視られる」対象となる若い女の子の方が、葛藤の只中へ投じられる機会が多いであろう。)(さらに、自ら主体的に女の子を表現の対象にすることは、当時ポルノ動画の中毒的な消費者になっている自分にとって、欲望を抑えるため有効だと思った。)

再来週に続きます…!

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