累積KJ法 R1ラウンド「何だか気にかかる問題点について」(第1篇)/大塚
これから何回かに分けて、「累積KJ法」による「R1ラウンド(問題提起ラウンド)」の具体例を紹介します。
累積KJ法とは
累積KJ法を何回行うかという点では、時間に余裕がある場合は、6回繰り返す六ラウンド累積KJ法が推奨されます。
R1ラウンド(問題提起ラウンド)とは
今回の素材となるデータは、日々のメモ帳から何となく気に掛かること、今後の人生でやりたいなと思っていることをピックアップした120枚の元ラベルです。7年ほど前にやったものですが、今自分が持っている問題意識はここから始まっています。
当時は「KJ-GPT」は無いので、全て手作業です。ポストイットを使ってアナログでまとめて、結果をScappleというソフトウェアでデジタル化しています。
全体のA型図解は次のとおりです。今回は、この中で真ん中あたりに位置している(1)と(2)について文章化したものを載せています。
※文章中の本や映画の紹介は、今回note記事を書くときに追加しています。
(1) 人間存在の基底となるカオスに目をむける
(1)-1. 人間にとってムダや非合理は大切だ
現代の社会を見渡しても、会社で働いていても、効率的で役に立つことばかりではうんざりする。教育に関しても、学校で哲学をあまり教えないし、大学の文学部を廃止するなど馬鹿げている話が話題になるなど、大学教育が実務面ばかり強化して短期的な効力に捉われすぎである。実利ばかり追い求める仕事は疲れるし、お金だけのために日々の仕事を積み重ねるのは味気ない。はっきりと目に見えない成果も大事である。すなわち、ムダで役に立たないことも長い目で見たら重要視すべきだということだ。
(現代人から野生の無理論的思考が奪われて、「人間らしさ」が衰えてしまっていると川喜田二郎は『KJ法』p.456で述べている。もちろん現実から遊離した理想のみで、実益が伴わなくては進展など起こりもしない。思想と実利の両輪を考えるべきである。)
ムダで非効率的だが大切なこととして、ハイテクをあてにせずアナログな考えを身に付けたい。テクノロジーばかりに頼っていては弱ってしまう。(たとえば仕事で会計ソフトを使っているが、入力は手でやっても計算は機械任せで全体を把握できない不安感がつきまとう。いつだったか、ある町の議員に手計算の会計を自らやらせてお金の流れを体感的につかむよう指導した話を聞いたことを思い出す。)また、パソコンで作ったプレゼン資料は人間味がない。(ある人が5Sセミナーにいったとき、パソコンで作ったものより手描きのプレゼン資料で発表する方がチームの人間性が出て印象的だったと語っていた。)つまり、肉体に染み込んだ思考を大切にすべき。
(手元のスマホでほとんど用が済んでしまうハイテク世界が地球中を覆っている今では、コンピューターを無効化するという北朝鮮の電磁パルス攻撃がもし実施されたら人々は生きていけるのだろうか。戦争は許すべきでない愚かな行為であるが、極度にハイテク化された社会に野性味を取り戻す点では意味があるのかもしれない。もちろんこれは危険な思想である。)原始的な人間らしさを欲するのは、五感や体を使わない事務作業ばかりという現状に嫌気がさしているからである。
仕事の大部分がパソコンを見つめることに終始して不満であり、五感や体が使われず衰えてしまっている。昔と比べても、仕事がPCや電卓を打つばかりになっていると話している人もいた。つまりは、五感やカラダでアナログな思考を身に付けたいのだ。(もちろんハイテク技術を否定するわけでなく、人間の肉体と上手く融合させることに興味をもつ。それはサイボーグ的なものであるのだろうか。肉体だけでなく、感情や直観などをもった人工知能についても関心がある。人間味のない完璧で精確なロボットなどはどことなく嫌悪してしまう。)
例えば、東南アジアではうるさい作動音を鳴らす家電の方が働き者なのだと聞いたが、そのような機械に愛着が湧く。バグのない完璧なロボットはつまらなく、ロジカルな機械と情念的なヒューマニズムの統合が大切だと考える。欠点のある人間らしいロボが愛らしいのだ。また、欠点やバグを大事にしたい思いと関連してか、乱れて不安定な音楽や映像を気持ち良く感じる。例えば、音楽や映像のグリッチやデータモッシュが心地よいし、ギターでノイズを演奏するのも楽しい。破壊的な音楽も好きである。人間味のあるバグの存在を尊重したいのだ。
当たり前であるが、人間はただのロボットではなく、人工知能の言いなりになってはいけないと考える。それは、AIの出す答えの道筋は人間にとってわからないところまでデータ処理の規模もスピードも進んでしまっていることへの恐怖からきている。会計ソフトの事例と比でないほどのブラックボックス化が急激におこっている。人間はAIの命令で動く歯車ではない。むしろ人間の沽券は、その不完全さと身体性にある。すなわち、人間性の根本にあるムダや非合理を大事にすべきであると思うのだ。
(1)-2. カオスをものともしないアジアのエキゾチックさ
一方で、現代日本では精神病者が日常から遠のいてしまっている。気が狂ったら直ちに病院へ入院させられる悲しい現状となっており、地域から精神病者が隔離されている。(もっと広く見渡して精神病者が、他地域や歴史上ではどのような扱いとなっているのか調査すべき。)精神病者が生活から疎遠になるのと同じく、オガミヤや祈祷者もいなくなってしまった。(本当にそうか調べてみる必要がある。もしくは他の何かが代用となったか。)また、彼らが消えてしまうことで、精神病者と医者の生活環境が違うものになり、互いに断絶が生まれてしまった。このように、精神病自体が生活から見えなくなる事態になってしまった。(本当に、昔の日本では精神病が日常と密接に関わっていたのか?)
関連して、肥溜めやボットン便所を不衛生で恥ずかしいものと決めつけて、下水道で汚いものを見えなくするのはダメと思う。膨大な時間やコストや、エネルギーや食物が濃縮されたうんこは価値の結晶である。(人間の生命力の根源で、次の生命が生まれる基盤ともなる排泄物をコンクリートで固めた下水管の中へ押し込むのは、極論では人間らしさを殺すことにならないか。)うんこだけでなく、精神病者や障害者、よそ者やボケ老人などは神秘性を帯びている。(障害者やボケ老人の神秘性について、もっと詳しく調べる。よそからの放浪者、マレビトへの信仰などに興味ある。)
ここで問題にしたいのは、表面的な嫌悪感で、キチガイやうんこを排除してはダメだということだが、これと関連して、路上に大麻を吸う、ホームレスとも聖人とも区別がつかない宗教者が転がっているインドのイメージがあり、アジアのエキゾチックなところに魅力を感じる。(インドだけでなくアジアは一般にそのような雰囲気なのだろうか。また、アフリカや南米などはどうだろうか。)気狂いや排泄物など、清濁併せ吞むアジアのエキゾチックさに惹かれる。
(1)-3. ヒトやモノのごたまぜな交流が面白そう
雑多なものが集まるという意味では、リサイクルショップや古道具屋についつい行ってしまうのも同じかもしれない。ここには、大量生産によって世界が画一化したことに対する抵抗がある。つまり、画一化していないおもしろ商品がならぶリサイクルショップが好きである。また、素人の乱の路上鍋や、0円ショップでワイワイやるのが楽しそうである。カオスなヒトやモノが集まるリサイクルショップや0円ショップ、路上鍋が面白い。
この章(1)をまとめると、人間の根底となるムダや非合理をのけ者にせず、アジアのエキゾチックさに憧れつつ、例えば気狂いやうんこなど一見して忌避しがちな存在をも自らに近づけ、予想もつかないヒトやモノの交流を楽しみたい、という主張になる。すなわち、人間存在の依って立つ渾沌さを見捨てるな、ということである。
(2) 循環を大切にして、適度な欲を得たい
(2)-1. 主体性がやせ衰え、無限の欲望があふれる
(渾沌さが危険視されて、キレイ化、監視社会化された世界では、コントロールしやすいよう人々の生活も画一化する。一見して安心安全の社会が実現したようであるが、その実際は国家権威や警察権力の従順な奴隷として、面白味なくギスギスしたディストピアが生まれてしまう不安がある。そのような社会では、主体性が切り詰められて能動的に人間らしく生きることができず、消費者としても“安心な”製造規格に沿って大量生産された既製品を、大量に使い捨てる受動的な立場に終始する。)
そこまで極端な世界にまで行っていないにしても、現代は欲が限りない世の中である。(minneやメルカリなど、ウェブにおけるハンドメイド作品や個人所有物のECサービスが急激な人気を見せているのも、受動的な消費者から脱け出し主体性を取り戻したいと願う人々が顕在化しているからであろう。)
(社会の高度な組織化や国家政治の形骸化にともない衰退の一途をたどる人間の主体性。それを取り戻すべく、何か手を打たねばならない。主体の疎外が行き着く先は自殺であろう。少子高齢化もこの点に関連するような気がする。産んだ子供をちゃんと大学まで行かせて育て上げないといけないという、見えないプレッシャーに苦しみすぎている気がする。この世界に受け身で過ごしていく子どもの将来を想像すると、無責任に子作りをできないのでないかと思ってしまう。戦後期や高度成長期にたくましく生きた人々の人生を学んでみたい。これからも主体性がないがしろにされたままでは、文明が滅びてしまう。)
(一方で、現代の若者には、欲に溢れた受動的な消費生活の裏返しか、物欲をあまり持たない人々も多いと聞く。さとり男子などは所有欲も性欲もない若い男子を指した言葉である。若い男性のEDも増えていると聞くし、セックスレスの夫婦やカップルも多いというイメージがある。無限に欲望が満たされないのも問題だが、まったく欲がないというのも考えものである。適度な欲を維持したい。)
(2)-2. 物質や恩などいろいろ循環させたい
(人間同士の社会的なつながりを得ることで、欲は適度に満たされるのではないか。スーパーやデパートで既に調理済だったり製造済だったりの商品を受け身で消費する人々にとって、作り手との人間関係を得る手段がない。物を介した人間のふれあいへの渇望から、終わりのない物欲に溺れる。一方で、ネットが日常へ爆発的に浸透したことにより、視覚情報だけのコミュニケーションが常態化した若者は、対面での人間関係に躊躇してしまう。本源的な人間の欲求である社会的つながりを満たせない彼や彼女らは、自らを正当化するため欲自体がまるで存在しないかのように振る舞う。これは非人間的で無理があることであろう。)
このような世の中で、先輩のおごりを自分の後輩に返す連鎖は大切だと考える。(損得勘定を基準にして互いに自らの殻に閉じこもるのでなく、お節介であってもオープンに相手をもてなすことが必要。たとえば、コンビニのレジでの会計も、ただお金のやり取りで終わるのでなく、ちょっとした言葉のやり取りをするだけで、ただの消費者としての立場を変えることができるではないか。そして、その関係を相手と自分だけの二者間に限るのでなく、もっと地域でも世代でも広い範囲へ拡散するように心がけたい。)
それは何も金銭的なやり取りだけに限るわけでなく、例えば野グソが土に栄養を与えるために大事だから、排泄と肥料のサイクルが面白いと感じたり、一方でコンクリートの建材は自然へ還らないので悲しいと思ったり、モノが自然へ還るサイクルに魅かれることへの興味にもつながる。また、ただ野グソから自然とキノコが生えたり、木造の廃屋が朽ちて土にもどったりするのを慈しむだけでなく、ゴミに新たな生命を与えたい。例えば、稲わらや石ころを拾ってきて商品やアートにできるのは嬉しいことである。不用品を使いまわすことに何だか興味がある。さらに、プリミティブな民族において、芸術はどのような意味を持っていたのかに興味がある。つまりは、モノや先輩の恩などが世代や場所を超えて循環することへ憧れがあるのだ。
(これは、資本主義社会が資源の有限性にもかかわらず、永遠に消費をし続けることでしか自らを維持できない仕組みになっていることへ、対抗の意識を込めている。管理化された社会においても、画一化され大量生産される商品が幅をきかせる世界とは異質の、循環的思想は好ましく受け入れられないであろう。大量消費の時代において、ゴミアートの素材は巷に使い切れないほど溢れている。不要品をアートや商品に使いまわすことと、男女の出会い、性欲の奮起とをうまく結び付けられないだろうか。山口百恵のゴミを漁ったJamの企画は、エロスと廃棄物の融合だ。性欲も循環の流れに結びつけ、適度な満足を得られるよう工夫すべき。)
(このように循環を通して、自他の区別を超えたカオスな交流が生まれる。そこでは自らが消費者でもあるが、また主体的なクリエイターにもなり得て、社会的な人間のつながりの只中にいることを実感できる。さらに人間だけでなく自然や地球、宇宙と一体になった自分を確かめることができる。)人間らしい主体性をなくし、欲が無限に湧き出る、または欲望をひた隠ししてしまう現代こそ、循環の思想が大切だ。
次回へ続きます。
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