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科学的発見を見つける唯一の方法・アブダクション/不破静六


論理的に思考するため方法には、演繹、帰納、アブダクションの3種類がある。今回は最後のアブダクションについて、パースの思想をもとに考える。

ニュートンがリンゴが落ちるのを観察して万有引力を発見したり、天文学者のケプラーが惑星の楕円運動を見つけたり、科学の大発見はアブダクションと深く関わっている。

チャールズ・サンダース・パース[注釈 1]: Charles Sanders Peirce、1839年9月10日 - 1914年4月19日[1])は、アメリカ合衆国哲学者論理学者数学者科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られる。

Wikipedia

参考にした書籍は主に次の2つ。

また、次の「ゆる言語学ラジオ 今井むつみ登場回」は、アブダクションについて知るきっかけに良いかもしれない。

疑念から行動へ

パースはデカルトに反論する。デカルトは本心では疑っていないのに、あくまで〈方法的懐疑〉だとして、疑いを全面に押し出すからだ。

「自分はこの世に存在しないのではないか?」と疑っている自分の存在自体は疑うことはできない、というのがデカルトの主張である。これは直観的には正しいのかもしれない。

しかし、そうした否定できない自分の存在を想定したとしても、その存在を証明する推論自体がそもそも不可能である。それゆえ、デカルトの主張を認めることはできない、とパースはいう。

パースの哲学の出発点は反デカルト主義の立場をとる。彼の立場は科学の方法に依っている。彼は科学の方法を推し進め、この方法からデカルト主義の精神を批判し、反デカルト主義の立場を主張する。デカルト主義の立場は、(一)普遍的懐疑から出発すべきである、(二) デカルト主義の哲学は確実性の究極の吟味が個人の意識の内部で行われるべきである、と主張する。パースの哲学の出発点はこのデカルト主義の精神を否定し、 従来の権威の方法と先天的な方法ではなく、科学の方法で始めようとするのである。 パースに従えば、私たちは懐疑から出発することが不可能である。哲学の研究をする場合には、私たちが現にもっている偏見から出発せざるをえない。懐疑から出発しようとすることは、真の懐疑ではなく自分を偽っているのであり、そもそも懐疑にはならないのである。デカルトは心のなかでは疑っていないのに、〈方法的懐疑〉だと述べて、疑いを全面に押し出す。しかしパースは、このように疑っていないのに、疑うふりをするような哲学的態度を取るべきではないと主張する。

またデカルトは「私が明晰に確信できるものはすべて真である」という命題を正しさの判定基準としているが、正しさの判定基準は〈私〉に求めており、〈私〉が本当に確信しているもの、確実性の根拠となるものは何か。私たちが真理の根拠になるもののこうした絶対的裁判官を認めることは有害であって、〈私〉が真理を確信し、「私が明晰に確信できるものは真である」という命題は成立しない。それに対して科学でいわれている真理の判定基準は、〈私〉ではなく、科学者の共同体における一致と見ている。真理は科学者の共同体の意見の一致によって、検証されることにより決まる。科学者の仲間の検証を得られないものはすべて検討中のものと見なされる。それゆえ、科学的方法が真理の決め手となる。

これまでの哲学は絶対に説明不可能で、分析不可能な何かを想定する。しかし説明不可能なものが存在するかどうかは推論によってしか知られない。想定の承認不承認は推論の結果が事実を説明するかどうかにかかっている。しかし絶対に説明不可能なものを想定しても事実を少しも説明したことにならない。それゆえ、絶対に説明不可能なものの想定はけっして承認できない。ここからパースは反デカルト主義の命題を導くのである。

岡田雅勝1998『パース 人と思想146』清水書院、pp.153-154

パースは、こうした「懐疑」に対する概念として「信念」を持ち出す。疑いというものは、それが解決するまで行動に移されない。これに対して、信念はすでに疑いがなくなった状態にあることを言うので、そのまま行動としてあらわれる。これは知識と行動が一緒のものであるという、陽明学の知行合一を思い出させる。

パースにとって、探究とは「疑いが刺激となって信念に到達しようとする努力」ということである。正しい信念形成のために、この推論の指導原理が用いられる。このことを明らかにするために、疑いと信念との区別を見てみるとしよう。まず「疑いの感じ」と「信じるという感じ」との区分がある。「疑いの感じ」は問いを発したいときの状態であり、「信じるという感じ」は判断したいというときの状態である。つぎに信念は願望を導き、行動を実現させる。疑いはそのようなことは決してない。疑いは落ちつきのない満たされない状態であり、それを逃れて、信念のある満足した状態にあろうとしているときである。その意味で、信念は落ち着いた満足した状態、信じているものを頑として信じ切っている状態である。

この違いは行動としてあらわれるかどうかにある。疑いは、疑いがなくなるまで探究を続けるようにしているので行動としてあらわれない。これに対して、信念は疑いがなくなった状態にあるので、行動としてあらわれる。したがって、信念形成にあっては、疑いが刺激となり、信念に達しようとする努力が始まる。その努力は疑いがなくなると終わる。そのとき、信念が確定された状態である。ここで注意しなければならないのは努力の過程が行動というのではない。疑いの状態にある限り、行動は不決断の状態にある。信念に到達したとき、いかに行動すべきかを決断したときであり、そのときに行動があらわれる。推論の指導原理に課せられている目標とは、疑いから信念の確定に、つまり「いかに行動するか」を導くことにある。信念の確定が行動を導くのであり、そのことを通してパースは習慣の確立を目指している。そのために指導原理が用いられているのである。

同上、pp.158-159

そしてパースは、整ったあり方で行動し思考することこそ、人間の本質と考える。そこから「人間は記号である」との主張が生まれる。

プラグマティズムということによって、パースが究極に目指すものは 、人間のプラグマ(行動)ということである。パースによるプラグマティズムの命名は、カントの用法〈プラグマティシュ〉に由来する。この言葉は、人間の思考が人間の行動の目的と密接な関係にあることを表すために用いられた。彼がその名前を選んだのは、その特徴が〈理論的認識と理性的目的とが不可分であるという認識〉(5.412)であること、つまり科学の方法と実践的行為とが不可分に結び付いているという認識からであった。たとえば、パースは〈人間は記号である〉と主張するが、その前提には、〈人間の本質は、人間が整合的に行動し、思考することである〉というパースの信念がある。彼は合目的的な行動との関係において、人間の現実性とか、特殊性を強調するのではなく、その整合性、未来性を強調し、特定の事情とか状況に左右されないで、自己制御可能な行動を求める。そこにはパースの実在論があり、その実在論にもとづいて、彼は科学的認識論と価値認識論との不可分な結び付きをはかった。

同上、pp.26-27

人間=記号=宇宙

パースが主張した命題というのは、「宇宙は記号であり、その理想を反映した人間も、つまり記号である」ということである。それは、反デカルト主義の立場から打ち立てられた。彼の哲学はこの記号論に深く根ざしている。

パースによると、記号過程は三つの要因からなる。(一)記号として働く何かある性質をもったものがあり、(二)その記号が表示する対象があり、(三) 記号とその対象を関係づける解釈思想がある。記号過程が成立するためにはこれらの要素は不可欠であり、その要素を欠いても記号過程は成立しない。言い換えれば、記号として働く性質も、その記号の対象も、その記号の解釈思想もどれもが三位一体的な記号過程である。そして私たちは記号を表示する対象しか知らない。私たちはそれらが記号の対象となる限り、あるいはそれらが記号のうちにその姿を現す限りのことしか知らない。

パースが直観の能力を否定するという反デカルト主義の立場から打ち立てた命題は、人間が記号であるという命題である。このことから「人間と記号とは一体である」「コトバと実在との同一性」は帰結するのである。この論法でもって、「宇宙は一つの発展しつつある記号であり、人間の理想的な共同体は記号の世界を映し出す究極の記号となる」ということである。この記号論が彼の哲学を支えている。

パースは「人間の意識のどの要素をとって見てもそれに対応するものがコトバのなかに見出せる」として、一切の意識の現象は記号の現象であることを主張する。このようにして、パースは意識の現象を探るのである。

『パース 人と思想146』、pp.168-169

新しい観念を導く唯一の推論

パースは論証について、演繹、帰納、アブダクションの3つに類型化した。そのうち、演繹と帰納については、従来の考えをほぼ踏襲する。一方でアブダクションについて、彼のオリジナリティが見られる。

彼は、「アブダクションは説明的仮説を形成する過程である。それは新しい観念を導く唯一の論理的操作である」と述べる。演繹や帰納が既知の結論を導くだけで、アブダクションのみが創造的で、真に総合的な判断ということになる。

こうしたパースの哲学の功績は、問題を含む状況に何か創造的な面があり、そこから新たな仮説の可能性が開けると示したことにある。そのときに働くのがアブダクション的な推論である。アブダクションによって導かれた創造的な仮説が人を行動に駆り立てる

論証は第三次性的主張であり、第三次性は一般性、法則性の概念であるので、カテゴリーで言うと論証は一般性、法則性を表示する記号である。では論証は一般性、法則性をどのように表示するのであろうか。たとえば、「雪が降ったか雨が降ったかである。しかし雪が降った形跡はない。そうだとすれば、雨が降ったのである」。これは選言的三段論法の一例である。これは論理学では、 p∨q、—p ∴q、または〔p∨q、—p〕⊃ qと書き表される。この形式に従う論証はつねに真である。しかし論証は一般クラスの一例として表示するとき、一般的クラスとは何を示すか。たとえば選言的三段論法は選言的三段論法と呼ばれる論証の一般クラスの一例を表示しているのか。それと もさらに広い演繹の論証の一般的クラスの一例を表示しているのか。

「論証はつねに解釈内容によって同類の論証の一般的クラスに属すると理解されるが、そのクラスは全体として真理に至る傾向を有する。こうした解釈は三つの仕方で起こる。そこではすべての論証を演繹、帰納、アブダクションに分類する三分法がえられる」(2.266)。ここから彼の言っている論証の一般的クラスは演繹、帰納、アブダクションのクラスを言っている。前提命題と結論命題に至る一定の移行過程が論証である。論証は一つの思想過程または記号過程であり、その思想過程または記号過程における移行をある一般的法則に従うものとして、その法則的移行過程を記号の解釈者のうちに引き起こすように、解釈者に対して解釈者自身の自己統制を通して働きかけようとする形式をもった記号である。

『パース 人と思想146』、pp.180-181

ここでパースの論証に見られる演繹、帰納、アブダクションを辿るとしよう。彼の演繹、帰納であるが、おおむね伝統的に同意しており、伝統的に従っている。したがって、彼の展開はアブダクションに対してその創意が見られる。彼の思想の哲学に対する最大の評価の一つは「発見の論理」であり、それがさまざまな人によって評価を受けた。それはカール・ポパーやノーウッド=ハンソンによって受けた評価である。それはパースが「発見の論理」を彼の論理学に新たに加えて、その論証過程を論じたことにある。彼は演繹は本質的に分析にあり、それを用いても新しい認識は得られないとする。この新しい認識、新しい情報は帰納とアブダクションによって得られる。この帰納とアブダションの二つの総合的推論間の相違を示そうとするが、パース自身でも二つの推論の間にはなかなかその違いを示すことができないほど難しい。

両者は互いに似ていて、帰納は一種のアブダクションとなることが強く、どの形の総合的認識は、知覚も帰納も発明創意工夫も、アブダクションであるということができる。ここにパースが曖昧であるとか、難解であるとされる面がでている。しかしここで帰納とアブダクションとの違いを強調し、その違いを見てみよう。

パースは帰納とアブダクションを区別する理由をあげている。(一)帰納はアブダクションよりも遥かに強い形の推論である。というのは、アブダクションは間違う可能性があるのに対して、帰納は完全に間違うのは困難であるからである。(二)帰納は、観察された事実から同じ種類の要請され た事実を導くのであるが、アブダクションは全く違った事実、多様な事実を統一する一つの事実を示している。たとえば、ナポレオンが実在したことはアブダクションである。 パースは、伝統的理解によれば、帰納はそういった飛躍はしないで、比率で満足すると言う。 (三)両者間には、〈生理的〉な差異がある。帰納は法則や習慣を生み出すのに対して、アブダクションは解放の感覚を伴う心の統一を生み出して、〈習慣〉というよりも思考の〈感覚的〉要素であ る。(四)帰納とアブダクションを区別するためには、科学の分類が便利である。〈分類的〉科学は帰納的であり、〈理論的〉科学はアブダクション的である(以上2.641-2.644)

パースは以上のように区別するのであるが、帰納とアブダクションとの類似性は否めない。したがって、あらゆる帰納はアブダクションを含むというべきである。つまり帰納はアブダクションの一つの形とみたほうが適切であるようである。パースは5.171で、「アブダクションは説明的仮説を形成する過程である。それは新しい観念を導く唯一の論理的操作である。何故なら、帰納は一つの値を決めるだけであり、また演繹は全くの仮説の当然の帰結を生むだけであるからである」と述べている。アブダクションは新しい観念を導く唯一の論理的操作であるなら、アブダクションのみが真に総合的な判断ということになる。

帰納では、「私たちは真である多くの場合から一般化し、一つのクラス全体について同じことが真であると推論する。・・・・・・ある状況が一般的規則の一つの場合であると想定することで説明され、そのうえで私たちはその想定を採用する」。「一般的」という言葉は確かに帰納とアブダクションの文章にも用いられる。パースは普通「一般的」という言葉を一つのサンプルから同種のすべての現象へ一般化する場合に帰納を指すために用いている(2.714)。この狭い意味での一般化でも仮説設定の一つである。

パースは帰納が仮説設定の役割を果たすことを主張している。「帰納は論証の一種であり、第一に先行のアブダクションから導かれる仮説から始まり、第二に想定される実験結果に対する事実上の予測から始まり、第三に実験を行い、予測が検証される基準として、仮説が真であると結論する」(2.96、5.145)。要約すると、「帰納とアブダクションは独立していない。帰納の結論とアブダクションの結論、つまり仮説の結論は同一である。如何なる総合的想定も、アブダクションの結果である」ということになる(バックラー『チャールズ・パースの経験論』、p134)。

ここにパースの科学に寄せた期待が大きかったと言わなければならない。私たちは論理としてその構造から見れば帰納もアブダクションも変わらないと言えよう。しかしアブダクションの創造的な面を重視して、創造的想像によって生まれる新しい観念を重要視した推論がアブダクションである。このアブダクションの創意こそパース哲学の新しい側面である。この問題に対するパースの哲学の功績は、問題を含む状況に何か創造的な面があり、そこに可能性が開ける仮説がでてくるということであり、その意味ではその問題状況はつねに創造的解決が求められる場があることである。その場に働くのがアブダクション的推論ということである。

同上、pp.181-184

隠れた関係性を炙り出す

考えるべき問題をじっと長い間にらんでいると、ふとした瞬間に電撃的な〈洞察〉によって、全体構造が心に浮かんでくる。アブダクションはそういった性質を持つ。帰納法と区別される所以である。そうした全体を構成する要素同士の関係性は、実は最初からそこに存在しているのであるが、アブダクションを通じてそれに気づくのである。

パースは帰納の問題とは違ったアブダクション的な方法があることを言うのである。私たちは、帰納的推論の例として、日の出の問題やトランプのカードの例を見てきた。そしてそれらを自然法則としてはただたんに習慣形成の問題として捉えたり、確率の問題として捉えてきた。しかし人が自然の働きの背後に何か原理みたいなものを把握するとき、人はたんに規則性が連続していることに感銘をしているだけではないし、その連続性を慣習として形成しているだけでもない。まさに人は洞察をもち、原理を見出して、相互関係を把握している。こうした私たちの心の営みが問題なのである。このように科学的発見はたんなる帰納には満足せず、物事を首尾一貫して法則や原理を見る、つまり仮説をも見ようとする。この点において、帰納とアブダクションは決定的に違うのである。

パースのアブダクションの意味をはっきりとさせている点をあげるなら、(一)アブダクションは〈閃光のように生じる〉(5.181)。アブダクションは〈間違いを犯しやすい洞察ではあるが、洞察の行動である〉。アブダクションを構成するすべての要素がアブダクションが生じるまえに心に存在するが、観念の新しい組み合わせ、あるいはその関係が、アブダクションにおいて新しいものである。問題をかなり長い間にらんでいると、瞬間的な〈洞察〉によって全体として心に浮かんでくる。(二)アブダクションは心の創造的飛躍と考えられるが、その飛躍が以前誰によってもなされていない。確かに新しい理論的発見はアブダクションではあるが、ある人が他人に何かを説明するさいに、 尋ねられた人が説明を聞いた後で、〈分かった〉と叫ぶ状況を捉えている。つまり〈気づく〉とき、 アブダクションをしている。アブダクションは心が事物をある方向で見る結果、事物がおのずから結びあって、心が調和と統一の感覚をもつことが伴う。

『パース 人と思想146』、pp.186-187

これは唐代の禅僧、百丈懐海と潙山霊祐の師弟間の会話を思い出させる。目の前の物事をタイミングよくどのように見るかで、そこにある仏を心に映せるかどうかが決まってくるのだ。

大潙百丈に在って典座と作る。一日方丈に上つて侍立す。百丈問ふ、阿誰ぞ。山曰く、靈祐。百丈伝く、汝爐中を撥いて火有りや否や。師撥いて云く、火無し。百丈躬ら起ち深く撥いて少火を得、擧して以て之を示して云く、此は是れ火にあらずや。師發悟し禮謝して其の所解を陳ぶ。百丈伝く、此れは乃ち暫時の岐路のみ、経に曰く、佛性を見んと欲せば常に時節因緣を観ずべし、時節既に至れば、迷うて忽ち悟るが如く、忘れて忽ち憶ふが如し。方に省みれば己物なり、他より得るにあらず。故に祖師の云く、悟り了れば未悟に同じし、無心にして無法を得ると。

大久保道舟訳註2016(1942)『道元禅師清規』岩波書店、p.131

科学的発見の根拠

仮説構築のためのアブダクションは、科学的理論の新発見を支える推論である。つまり、アブダクションなしには科学的発見は考えられないとも言える。

(一)驚くべき事実Cが観察されている。(二)しかしもしもAが真であるなら、Cであるのは当然の事柄であろう。(三)それゆえ、Aは真ではないかと考える理由がある。

これを形式化すると、C、A⊃C、∴Aという形に表される。

アブダクションが推論形式としてこの形式をもつなら、観察事実Cを論理的に含意するような仮説Aは無数に存在するだろう。それゆえ、論理的形式から見れば、無数に存在すると思えるものから科学的知識がある体系的秩序をもって形成され、その体系がますます大規模なものへと統合されることによって、さらにまた新たな発見の基礎となってきたという科学史上の事実は驚くべき事実である。それゆえ、この事実はアブダクションの論理について解明されなければならない。

ところで歴史的にアブダクションの形成の記録を辿っていくと、論理では解明されないもの、つまりある本能的な自然の光とも呼ぶ洞察が働いている。これは論理上何かわけの分からないもの、説明不可能なものがある。しかしアブダクションについてこのように、説明不可能なものがあって、〈それが合理的であるとは思えない〉と言えるのである。つまりアブダクションにおいて、論証的推論関係以外の要素が明晰ではない仕方で了解されている。この何か説明不可能なものが事実であって、この事実に基づいてそれをアブダクションとして構成したものが科学の論理である。

したがって、アブダクションはその意味において、従来の論理として考えていた演繹法、帰納法という枠組みではなしに、アブダクション法という新たな論理をつけ加えたと言える。一見アブダクションは帰納的推論と間違われやすい。事実パースもそれとの混同もしているようであるが、ここで改めてアブダクションの科学の方法として取り上げたい。つまりアブダクションは仮説構成として働くものであり、アブダクションなしには科学的発見は考えられないのである。その意味においてアブダクションはプラグマティズムの論理に他ならないと言える。

『パース 人と思想146』、pp.188-189

理性に優る本能

誰しもが、自分の微力をもって遂行できる、人生の仕事を見つけ出さなければならない。そしてそうした作業では、表層的で誤りやすい部分(すなわち理性)ではなくて、魂の部分のなかで最も深く確実な部分(本能)に頼るべきだという。人間は自分の理性にうぬぼれているのであり、「完璧な人間理性」など存在しない。

この世ではわれわれは、日常のありふれた世界に生きるささやかな生物であり、それ自体貧相で小さなものに過ぎない社会的有機体を構成するただの細胞である。われわれはどのようなささやかな仕事であれ、周囲の状況が許す範囲で自分の微力をもって遂行することのできる、人生の仕事を見つけ出さなければならない。われわれはそうした仕事の遂行のためにすべての力を発揮しなければならないから、それには当然理性も含まれる。しかしすでに述べたように、そうした作業の過程で主として頼りにすることができるのは、魂の部分のなかでももっとも表層的で誤りやすい部分———理性———ではなくて、もっとも深く確実な部分———本能———の方である。

パース著、伊藤邦武編訳2001(1898)『連続性の哲学』、岩波書店、pp.45-46

人間は自分の理性の能力についてあまりにもうぬぼれているのである! 人は自分のこの能力のことを、自分自身を複製して外から批判的に観察するような、客観的な仕方では決して理解できないようである。われわれが好んで 「低級な動物たち」と呼ぶ者は、ほとんど推論することはない。しかし良く見てもらいたいのだが、それらの生物は非常に稀にしか誤謬を犯さないのにたいして、われわれはどれほどしばしば誤ることか! われわれは一二人の立派な人々を雇って、ある訴件について決着を付けてもらおうとお膳立てし、最大限の注意を払って問題に関係する事実を提示する。その事情説明の場には「完璧な人間理性」が行きわたり、彼らは耳を傾け、別室に退いて熟考し、そしてついに全員一致の結論が出る。しかし、この陪審員たちが結論を決めるために、一ペニー貨を投げたとしても結局のところ同じだったろうというのは、広く知られていることではないのか。こんなものが人間の栄光なのである!

われわれがごく僅かの例外を除くすべての人間においてもっとも尊重する精神的な資質とは、若い女性の繊細さ、母親の献身、男らしい勇気など、いまだ言葉を発する段階に達していない類人猿から人間が引き継いできた資質である。これにたいして、もっとも軽蔑すべき諸性格の方は、推論に源をもっている。誰もが自分の推論の能力をこれほどまでに 過大評価しているということ自体が、この能力がいかに浅薄なものであるかを示すに十分である。なぜなら、勇気のある男性が自分の勇気を誇ったり、謙遜な女性がその謙遜さを自慢したり、あるいは本当に忠誠心をもつ者が二心のなさを誇示することなど、聞いたことがないからである。彼らが実際にうぬぼれるのはつねに、姿の美しさとか特殊な技術のうまさなど、無意味な資質の方である。

魂の実質的部分をなしているのは本能であり感情である。認識能力はその表層にあって、外なるものとの接触の場をなしているに過ぎない。

同上、pp.19-20

その本能は普遍的な性質を持つものである。例えば数学のような一見して論理の構築物のように見える分野でも、全く別の箇所から同じような理論が生まれることがままある。仮に研究者の恣意性が起点になったとしても、それぞれの意志が全体集合としてまとまって、一つの偉大なコスモスを形成するのである。

一般の人々は、数学の世界では多くの数学者のさまざまな恣意的仮説があらゆる方向を向いていて、それぞれ際限のない恣意性の虚空に散り散りになっているのだと考えるかもしれない。しかしながら、実際に生じているのは、そうした無秩序な渾沌ではない。反対にわれわれが本当に目にするのは、アフリカのダイアモンド鉱山とカナダの金の産地クロンダイクほどにも異なった領域で研究している者どうしが、同じ形式の新しい仮説を生み出すということである。リーマンは明らかに同時代人のリスティンクのことを聞いたことがなかった。後者は博物学の背景をもった幾何学者であり、葉や鳥の巣の形状に専念していたのにたいして、前者は解析の関数を研究していた。しかし二人が創造した考えのなかでも、もっとも恣意的なものに見えるものが、実はまったく同じものなのである。このような現象は例外的な事例ではない。実際良く知られているように、こうした現象こそわれわれの時代の数学を特徴づけている事実である。

現実的な世界から具体的な対応物を提供されることなく作り出されるこうした形式の創造者たちは、そのおのおのが恣意的に自分好みの意志に従いながらも、彼らの集合全体として———われわれがようやく気づき始めたように———、今や諸形式からなるひとつの偉大なコスモス、潜在性の世界というものを発見しつつある。このことは純粋数学者自身が感じていることである。純粋数学者はもちろん自分の感情を発表したり、一般的な考えを発表する習慣をもってはいない。数学における昨今流行のやり方は証明のみを印刷することであり、印刷された一連の証明の奥にある数学者の感情を読みとることは、読者の側に委ねられている。しかし人々が高等数学者と話をする幸運に恵まれるならば、 典型的な純粋数学者は一種のプラトン主義者であることを見抜くことであろう。ただし彼は、永遠的なものは連続的ではないというヘラクレイトス流の誤りを正したプラトン主義者である。純粋数学者にとっては、永遠的なものはひとつの世界、コスモスであり、現実の存在者の宇宙はそのなかに占める一個の恣意的な場所に過ぎない。純粋数学が追求している目標は、まさしくこの実在する潜在性の世界を発見することなのである。

同上、pp.44-45

自己放棄としての観察

パースによると仮説形成は総括によって始まり、次に観察がくると述べる。その観察は帰納におけるものとも演繹におけるものとも違う。対象を見つめるうちに、そのなかに具わった隠れた力が働いて、ある一定の感じ方に制約される。つまり仮説形成における観察という行為は、そうした不可抗力を前にした、われわれの自発的な自己放棄であるという。

ここには、川喜田二郎のいう「己を空しくして、データをして語らしめよ」に通じるものがある。

最後に、仮説形成について言えば、それはまさに思考上の実験そのものである。仮説形成的推論は実験的な研究である。われわれが帰納と演繹とを実験と観察の観点から捉えようというとき、実際にしていることは、これらの推論のタイプのなかに、仮説形成と類似なものを認めようとしているのである。言うまでもないことだが、この推論は常に、仮説が主題とする事柄に関連した多くの観察事実を総括することから出発する。すでに述べたように、総括を推論一般における本質的要素として指摘することは、ヒューウェルが始めたことである。ゼノンからホエイトリーまでの歴史上の全論理学者が、こうした重大な指摘をこの鉱物学者に任せることにしたのは驚くべきことである。とはいえ、ヒューウェルはまさにもっとも尊敬に値する論理学者であり、彼が過小評価されてきたのは、あくまでも彼が哲学と科学のいずれにおいても、学界の主流から離れたところに位置していたからである。彼の『ドイツ教会の建築にかんする覚書』という地味ながら素晴らしい研究を現場で読みつつ、同時に推論についても学ぶというのであれば、ライン地方を訪ねることは十分に価値のあることだろう。その『帰納的諸科学の歴史』について言えば、この書は哲学にとって可能である限りで、ケーラス博士が言うところの「永遠不変の所有物」の代表とも言うべきものである。ミルの『論理学の体系』はこの書を論破するべく書かれた。わたしはミルの『論理学の体系』が、帰納的推論の理論にかんしていかに誤ったものであるとしても、まったく無価値なものと決めつけるつもりはない。しかし科学の源泉についてのヒューウェルの徹底した通暁ぶりと、ミルの外からの概観に見られる著しい相違は、ヒューウェルが科学的推論にかんして価値があるとしたすべての点が、時を経るにつれてますます確証されてきたのにたいして、ミルがその第一版で成功した帰納的推論の事例として選んだものが今や完全に破綻していることに、良く現われている。もう一度仮説形成に戻って言うと、それは総括によって始まる。複製に対応するようなものは場合によって生じたり生じなかったりする。そして次に観察がくる。その観察はしかし、帰納におけるような対象の外的観察ではなく、演繹におけるような図標の部分部分にたいする観察でもない。といっても、それはやはり本物の観察である。というのも、観察とは結局のところ何であろうか。経験とは何であろうか。それはわれわれの生の歴史において外から強制される要素である。われわれは、自分が眺め思念している対象のなかに具わった隠れた力によって、それを意識するべく制約されるのである。観察という行為は、そうした不可抗力を前にしたわれわれの自発的な自己放棄である———われわれは自分が何をしようとも、結局はその力によって打ち負かされることを予期して、自分から降伏するのである。われわれが仮説形成において行う降伏は、ある観念の側からの自己主張にたいする降伏である。仮説は、フランス人たちが良く言うように、「わたしよりも強い」。それは抵抗できず、命令的である。われわれは自分の軍門を開いて、少なくともしばらくのあいだは、それを受け入れなければならない。わたしは先日アレクサンドル・デュマの魅力あふれる『旅の印象』を読んでいた。この本は筆が滑って書き間違えた箇所に満ちている。彼はフィレンツェのつもりでピサと書き、老コジモのつもりでロレンツォと、一三世紀のつもりで一八世紀と、五百年のつもりで三百年と書いている。しかしこれらの文字を追っていても、新しい観念が生まれてきてその文字に取って代わり、あたかもそれを読んだように感じる。というのも、それらは意味をなすからであり、印刷された文字は意味をなさないからである。

『連続性の哲学』、pp.58-60

真理を学ぶには

そして、真摯に真理を見つけようとする心。それこそが、真理に至る唯一の道だという。

最後に、仮説形成は、その前提に含まれたさまざまな特殊な事象については、とくに注意することなく遣り過ごしておく。なぜならそれらの特徴は、前提が採用するように促す仮説のうちにも、潜在的に含まれたままになっているからである。採用された仮説の内容にかんする研究が深められていくにつれて、仮説は必ずやゆっくりと色彩を変えていき、少しずつ変容や訂正、増幅を蒙っていくことになる。それは何か突発的な破局が訪れて、訂正を余儀なくされることがなくても、もともとの経験がもたらした潜在的な特徴のおかげで、自然に変化していくはずである。

こういうわけで、あらゆるタイプの推論は、それが十分に展開されるならば、自己訂正し成長する生き生きとした力をもっている。この性質は推論の最内奥にまで深く届いた本質的特徴であるから、ここでわれわれが真理を学ぶために必要な条件とは何かと考えるならば、その答えとしては次のように言うのが正しいということになる。すなわち、「真理を学ぶために必要なことはただひとつしかなく、それは真なることを心から積極的に学ぼうとすることである」。人がもしも本当に真理を学びたいと望むのであれば、その途がいかに横道に逸れたものであったとしても、間違いなく最後には結局、真理への途へと導かれることになるであろう。探究方法にかんするその人の考えが最初はいかに誤ったものであっても、その探究活動が真摯な欲求に突き動かされたものである限り、彼はいずれその方法を訂正することを余儀なくされるであろう。いや、その人が最初はそれを半分しか望まないとしても、経験が十分に長く続けられさえすれば、真理への欲求が他のすべての欲求に打ち勝つことであろう。もちろん、出発点における真理への欲求が本心からのものであればあるほど、真理へと到達するために費やす時間は何世紀も短縮されるはずである。

『連続性の哲学』、pp.60-61

一方で、他人に教えようという気持ちが先走って、自分の持っている知識や考えが絶対的に正しいと思ってしまっては、学問が衰退するとも述べる。人が研究で成功を収めるには、自分の知識が足りていないのだと常に意識する必要がある。しかし残念なことに、この2種類の態度は真逆のもので、妥協不可能である。

探究のこのような性質を証明するためには、まず、何が「学ぼうとする意志」というものの本質的要素なのかを認識する必要がある。学ぼうとする意志が前提とする第一の事柄は、自分自身の現在の信念状態にたいする不満である。そしてここにこそ、われわれのアメリカの大学が、かくも低級で役立たずであることの秘密がある。

われわれの大学は文明も発展のために何をしてきたのだろうか。アメリカの大学がどんな偉大な思想を生み出したというのか。その産物であると本当に言えるような一人の偉人が、どこにいるのだろうか。イギリスの大学は長いあいだ怠惰の風潮に染まりきってきたし、現在でもそうであるが、それでも過去にはロックやニュートンを生み、われわれの時代にはケーリー、シルヴェスター、クリフォードを生んでいる。ドイツの大学はこれまでずっと全世界の光であった。中世に創立されたボローニア大学はヨーロッパに法体系をもたらした。スコラ哲学はパリ大学で栄え、今では見下されているが、そのパリ大学がアベラールを生み出して、そこからデカルトを育て上げた。ヨーロッパの大学とアメリカの大学に見られるこうした相違の理由は、彼らの大学が「学ぶための組織」であるのにたいして、われわれの大学が「教えるための組織」であるということにある。他人に教えようという気持ちで一杯になっている人の心は、自分が教えなければならないことが決定的に重要で絶対に真理だという考えに、完全に占有されていなければならない。一方、人が研究において何ほどかの成功を収めるためには、その人の心は、自分の現在の知識の状態にたいする不満の意識で一杯になっていなければならない。二つの態度はほとんど妥協不可能である。とはいえ、多くの人々に罪の意識を自覚させるのは独善的な人間ではなく、自分自身罪人であることをもっとも深く意識している人間であり、人が罪への隷属から逃れることができるのもただ罪の意識によってなのであるから、他の人々に学ぶことの必要を自覚させることができるのは、自分がすべてを知っていると考えている人間ではなく、また、学習という骨の折れる途へと人を駆り立てるのはただ、自分が惨めにも無知であるという深い意識だけである。わたしの乏しい知識によれば、これこそがまさに、アメリカの教師たちが卓越していると言われるあの素晴らしい教育法が、分かりきった些細なもの以上の成果を生み出していない理由である。そうした教育法は、人の心を焼き尽くして他の者にも同じように深刻な病を伝染させずにはおかない、あの学ぶことへの熱気というものに比べれば、まさに何物でもないのである。

同上、pp.61-63

アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ

南北戦争前後のアメリカで過ごしたパースは、生涯を通じて正式な教授職に就くことなく、生前はその独創的な思想も国内では評価されなかった。晩年は貧しい暮らしを余儀なくされ、孤独の中で圧倒的な分量の論文を書きながら死んでいった。

そのように自分の力を頼りに生きたパースは、生きているうちについぞ神の意志に叶うことがなかったのである。しかし、そうした特異な境遇もまた、矛盾にまみれた当時のアメリカにおける一つの生き方であったのかもしれない。死後ずいぶん経ってから、そのオリジナリティに溢れた思想がアメリカ国内はもちろん、世界中で認められることになったのである。

アメリカ人はある意味ではピューリタニズムの教えを守ってきたようであったが、だが大抵のアメリカ人は自分の力を頼りにして生きていき、自分の力に善、正義を見出してきたのであった。実は自分の力を頼りに生きたにもかかわらず、アメリカ人は何か重要なことをしようとするとき、それを神の意志としたし、また何か自分たちの行動が成功したときも、それも神の意志としたのであった。ここに私たちは矛盾に生きる、アメリカ人の「逆説と夢」の一面をみるが、だがそれも結局のところ、アメリカ人が自分たちに与えられた「現在」を夢中になって生きてきたことの証と言えよう

岡田雅勝1998『パース 人と思想146』清水書院、pp.10-11

アメリカがいろいろな矛盾をはらみながら多様なものをいつの間にか統一していき、アメリカとなっていったのであるが、彼の独特の性格が災いして、アメリカ社会に彼の豊かな才能を示す機会をほとんどもつことなく彼の生涯を終えた。そして彼の業績は残念ながらほとんど認められることもなく、晩年の生活では彼の人生で繰り返された敗北と不名誉のために、彼は法的に逃亡者となった時もあった。彼の最晩年はミルフォードのアリスベで暮らしたが、食う物ももたないほど貧困で、また病的状態にあった。それでも彼は書きまくった。それは、プラグマティシズム、批判的常識主義、現象学、記号論、倫理学、美学の領域に及んだ。

そうした彼が書き残しているのは、フェミニスト的な発言である。この「・・・女性の方が男性よりも断然優れています」という表現である。彼は依然としてフェミニストとして活躍している前の妻ジーナのことを思っていたのか、彼は彼の思想と同様にフェミニストとして時代を先んじていたのだった。パースの思想がアメリカに伝わり、アメリカの独創的思想家として知られるようになるのはパースの死後ずっとたってからである。アメリカはピューリタニズムの影響を受け、多様な思想の内にはらみながら、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを作り上げてきた。パースも特異な生涯を送ったが、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを作り上げた一人であった。

同上、p.152


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