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累積KJ法 R1ラウンド「何だか気にかかる問題点について」(第3篇)/大塚

累積KJ法 R1の続きです。
前回はこちら(↓)。

つまり、「即興音楽とスタンプまたはアイドル文化など芸術の創作を通して、人間の身体やただの物体としての限界を突破し、無秩序をより高次の創造性へ昇華させ、悟りの境地へ進みたい」ということでした。

今回は、次の図解の(5)書いて伝えるのが気を使わず楽だ(6)人間らしい本音の経済と政治をKJ法で、の2点を文章化します。


(5)書いて伝えるのが気を使わず楽だ

 表現の手法に関しては、しゃべるより書いて伝えるのが得意。一方で、自分の考えをしゃべって伝えることが苦手だ。ただし、人前で話をしてその場を一体にする快感は確かにあった。口下手な一方で、文章を書くのが楽しい。人と話すと気疲れしてしまう。話す相手を楽しませようとつい緊張してしまう。思ったことを一度頭の中で考えてから、口に出すので口数が少ない。考えるのにエネルギーを使う。人つきあいはすごく疲れる。

 (それは、人付き合いが自分を偽る上っ面のせめぎあいに終始してしまうから。うわべの虚像は、多くの場合が打算的で自分が損しない、もしくは恥をかきたくないために、いやいやこしらえたものである。自分から望んでつくるアイドルにとっての虚像とは似て非なるものである。しかし飲み会の場で話すのは結構たのしい。お酒をたくさん飲んでいれば、初対面でも気が合わない人をのぞけば楽しく話せると思う。人と会ったら仲良くならないといけないという教えに縛られて、普段の人付き合いは窮屈になっているのかもしれない。学生の時はもっと話していたのに、仕事をしだしてからしゃべる気力が削げ落ちたような気もする。ただ、カオスを創造的なレベルへと高め、忘我の境地へ至るためには、全人的な能力が必要である。努力してしゃべりも上手くなりたい。また、打算的な付き合いになるのでなく、シラフでもありのままの自分を出すことができればもっと楽になるだろう。女の子とも上手く付き合えないのは、ひとりを選ぶのができないとかいうのでなく、相手と二人きりでどんな話題を話せば良いかわからず、話がつまらないと思われることへの恐怖がある。遠慮なく冗談や弄りあいをできる子は一緒にいて心地よい。)

 (また一方で、今の強みである文章を書く力は、さらに磨いて、悟りへ至る芸術表現の域までもっていきたい。文章の表現と関連するのは、ハンコやスタンプへの興味や、写真への興味であろう。ただ枠にとらわれず、その他ダンスやギターの手法も全体として芸術の表現を活用していきたい。)

(6)人間らしい本音の経済と政治をKJ法で

 しかし、ありのままの自分を出すことは複雑な現代の日本社会では難しいように思える。なぜなら、メンツを気にして世界が閉じ篭っているからだ。さらに恥を捨てて思い切りバカになる場が少ない。世界中が自らの殻に引きこもっている。(政治家が権謀術数のとりこになっていたり、資本主義社会で打算的な考えがはびこったりして、自らの権益や利益を捨てて、心の底から他人とつながることが少なくなっている。さらに管理社会化が加速し、ムダや非合理が日常から消えてゆくほど、心情的な連帯はますます薄れてゆく。それが積み重なって、グローバルのレベルでは、ポピュリズム的政治の膨張や民族対立の激化、富の一極集中などが問題になっている。)ローカルのレベルでも、たとえば伝統産業の業者は互いにどんどん孤立している。彼らはお互いの悪口ばかり言っていて、業界全体が自らのお金や技術を囲い込んでいる。(業界の売り上げが全盛期から急落している危機なのでしょうがないが、つらいとき必要なのは競合でなく協働だ。)

 現代では、世界レベルでも日本の地方レベルでも、外ヅラにこだわり孤独になっている。人間同士心の底から触れ合いたいという思いは人の本質的なもので決して拭い去ることはできない。しかし、現代では波風が立つことが怖くて本音で話せない。建前など無視して心から語り合えないというジレンマがある。そのような葛藤をのりこえるため、顔色を伺いあうことなく、自然に意見をまとめることができるKJ法を共にやることで、互いに仲良くなることができるのではないか。KJ法が、一見して些末で価値のないような意見も排除せず、全体に俯瞰して結びつける点はとても良いと思う。そのように、外ヅラの関係ないKJ法で連帯する必要がある。

 社会がひやりと冷たく、互いにギズギスしているのと時を同じくして、人々の主体性が衰えている。その原因としては、例えば衣食住を自給自足できない現状がある。既成の商品や考え方が創作の楽しみを奪っている。既成の商品や食品、思想があふれている。人々はタダの消費者としての枠を乗り越えられない。自ら創作しワクワクする体験がすくない。生活の主体性がなくなっていく。人間が、ただの社会を回すための歯車やロボットに堕して、人間らしさが殺されていく。そのような危機意識があるなかで、マイナンバーで人間を管理するのはいやだ。管理化する社会は、人間性が蹂躙されてしまうからかどことなく気味が悪い。社会が人間を管理するなと主張したい。さらに、いわゆる”まちづくり”に対してもあまり興味が湧かない。それは”まちづくり”は社会の管理化のようで気持ち悪いからだろう。主体性を削ぐ管理化まちづくりには反対だ。

 そのようなギスギスした社会で、人々はおおらかさを忘れている。一方で、アジアののんびりした雰囲気が気になる。アジアのおおらかさに憧れる。実際に足を運んで調べてみたい。それが不可能でも、このおおらかさはもっと調査が必要だ。この点に関しては個人的なレベルでも気にかかる。なぜなら、万事において力みすぎているきらいがあるからだ。それは抽象的に考えると、川喜田二郎がいうように、ありのままの世界を受け入れず、おのれの小さな我に執着してしまっているのであろう。自らを空しくして矛盾を乗り越えるべきだ。具体的な例では、ソフトバレーで体をバネのようにやわらかくしたら上手くいったことがある。脱力してありのままを大切にすべき。おおらかなアジアが、力を抜いてそのままを認めることに憧れる。日本では、松本哉が書いていた、路上ベンチで飲み会をする下町のおじちゃんがうらやましい。ただし、ありのままのカオスをそのまま放置しては何の生産性もない。それを創造的な作品や悟りの域に高めるための鍛錬が欠かせない。このように、下町オヤジ路上飲みのように、やわらかく主体的なまちづくりを目指したい。

 そのためにはタテの服従でなくヨコの協働が大切。人の上に立つと自然と権威的な圧力をまとってしまう。それが下の者の自主性を奪う。ゆえに、自立・相互扶助のアナキズムに憧れる。(アナキズムといっても国家を完全に打破すべきだとは思わない。一人では到底できないようなことをやってのけるのが組織結束の強みである。憎むべきは上意下達の硬直した組織であり、国家についてもボトムアップとトップダウンが柔軟かつスムーズに交流するものであれば歓迎すべき。そのような新たな組織モデルを考え出すべきだ。)しかし横同士のつながりが重要である一方、現代では隣保班の自治の仕組みが衰えてしまっている。今住んでいるところでも、お隣の家で深いつきあいはない。ご近所のヨコ同士の自治がすたれてしまっている。ゆえに、例えば夜の見回り活動など近所で緊張する場を共有し仲良くなるべき。講の組織も衰退してしまい、ご近所同士の経済的な結びつきが希薄になった。地域コミュニティで金銭の助け合いが必要である。(このように、自分の殻に閉じ篭ってしまう傾向が影響を及ぼしてか、ローカルでの人のつながりがうすれた。政治や経済だけにとどまらず、労働や芸術、宗教など包括的な生活の営みにおいて連帯が必要だ。)お隣さん同士で結びつきを強めるべき。

 関連して、近所で協力して作る小さなお祭りも消えつつある。元来はこのお祭りなどが生活の包括的なつながりを生み出した催しであったろう。しかし、今では業者の大きな花火大会ばかり盛り上がっている。ご近所でつくる小さなお祭りを大切にしたい。イベントは外から観光客を呼ぶために行うのでなく、自分や地域のカオスを創造的に高めるための一手段として捉えてみてはどうだろう。イベント自体は目的でない。さらに、地域の自治が行き詰っているだけでなく、中央の政治家によって現場の民の声が拾われていない。世論の調査なども、分析ばかりで総合化の考えが足りていない。ゆえに政治の支配する者とされる者にミゾがある。政治家は分析重視で民衆の声を活かせない。政治不信の現代では、まずご近所との連帯が大切である。(自治自警だけでは限界がある。ゆくゆくは、民衆の自治と政治家や行政を上手く融合させるべきだ。)また、将来は研究者にもなりたいと思ったが、国の給料で研究をすることに違和感がある。国立大学は行政組織であるので、トップダウンの雰囲気から容易に脱せないであろう。そのため、在野の研究者に憧れる。国から独立して研究したいのだ。私立の大学であれば中央の意向とは別に動くことは可能であろう。しかし、そうなると今度は資本主義や功利主義の問題と戦わなければならない。中央主義がはびこり、主体性をなくし緊張しながら生活せざるを得ないのには耐えられない。お上に頼らず柔軟な自治や研究を進めたい。

 (自らの殻に閉じこもり、他人とのあたたかな触れ合いに飢えた現代社会において、外ヅラに関係なく人間が全身でぶつかるKJ法はピッタリである。国家や企業、学校など組織の硬直化で人間らしい主体性が踏みにじられており、早急にヨコの連携を深める必要がある。急速な社会発展に伴って複雑怪奇に絡み合ったしがらみは容易にほどけにくいが、それを根気よくきれいに梳いて社会を闊達自由で流動的なものにすべき。アジアにならって脱力を心がけ、さらに進展をゆるめず情報社会の高度な組織化も実現するという、一見矛盾したふたつの理想を実現化せねばならない。)その第一歩として、足元からの本音の自治や研究にKJ法で取り組みたい。

 さらにKJ法の強みは、ひらめいたアイデアは論理的に説明できる点である。実際に働く中で会議を見聞きしていて感じたが、現場の体感を抽象的な計画へ昇華させるのは難しい。機械がやるのでなく人間の手によるものなので、仕事では具体性と抽象性のどちらも欠けてはならないのであるが、なかなかそれは口ほど容易にいかない。体感と計画をひとつにするのが仕事のキモである。その点累積KJ法をつかえば、無理なく仕事の肌感覚を将来の計画へ結びつけることが可能である。仕事には、そこまで論理的に説明できないような実体験が肝要であるのに、ビジネスは筋が通った合理性ばかり求めているようだ。しかし、論理だけでは人間らしい直観は生まれ得ない。論理を優先したら人間性が阻害される。論理だけではひらめきが生まれない。偶然や非合理なことを大切にすべきである。そこでは人間性を忘れてはならない。(合理化の過度な強調は、ビジネスだけでなく社会全体にも蔓延している。日本人はあまりに仕事ばかりしているので、普段の生活でも文化でもそのような考えしかできなくなったのか。嘆かわしい。人工知能の驚くべき発展で、今後ますます合理化していくのだろうか不安である。)人間らしいビジネスでは直感を大切にしたい。さらに、ビジネスの根本となる資本主義を、思想や哲学で柔らかくするべき。例えば、腐ってしまうお金のアイデアは面白い。このように、ソフトな資本主義を求めたい。直観とロジックを包括した、人間らしい資本主義が求められる。

 実感としても、仕事には手を止めて考え事をしにくい雰囲気がある。(深く考えることが仕事の重要な一部になりきれていない。)しかし、すでに出来合いの)仮説のアテハメ主義では上手くいかないのは明らかだ。ゆえに、沈思黙考することなく、既存のロジックで進める仕事に不満がある。(もっと五感をフル稼働させて混沌とした外界と密な交流を持ち、その無秩序から仕事を芸術的な作品として産み落とすような姿勢が大事だ。)

 そのような既存の理論をあてはめて、ただの作業を受動的にこなすような仕事をしていては日々メリハリがない。どちらも人間の生活なので、本来は同一であるべきだが、不自然な形で日常と仕事がつぎはぎされている。つまり仕事ではロジックにあまりに偏っている。ゆえに、仕事のロジカルな面ばかり頭に引っかかり、平日に比べて情念も多分に混ざった土日も休まった気がしない。生活が生き生きしていないのだ。さらに、実体験からしても他人と接する時に心からの笑顔ができず自己嫌悪になる。まるで自分が機械のようである。そのような互いの距離がつかめない会社では働き続けたくない。社員同士の間(ま)を取りづらく、会社に一体感がない。また、会社のメンバーと目を合わせて話すのが怖いときがある。このまま働き続けることが不安だ。社員みんなで協力してひとつのことに取り組むことがない。上層部の操り人形で、ただのロボットとして働いているようなものだ。アホくさい。しかしただ不平を言うだけでなく、みずから主体的に環境を変えてこそ将来の糧になるだろう。そしてこのような問題は、今の会社だけに限られたことではない体。仕事で自殺やうつ、生理不順が引き起こされる。ツイッターなどを眺めていると、仕事をストレスと考えている人が多い。仕事のストレスが人を苦しめるのだ。自分の親も仕事の疲れか、家では喧嘩ばかりで子供心にうんざりしていたし、大人になってそうまでして働く将来にうすうすバカらしさを感じていた。日常の起伏もなく、会社のストレスで笑顔が消えてしまう。仕事の負荷で毎日の感情がのっぺりしてしまうのだ。

 さらに、都会では退職後の生きがいを見つけられない。(田舎では会社以外の地域の生活のつながりがあるので、退職後も楽しみは多いようである。しかし、仕事の論理的な面ばかりに捉われて、なおかつ自主的な創意工夫も限られた平坦なサラリーマン人生を送ってきた人々は、仕事以外のやることを見つけるのが難しいようだ。もちろん会社の飲み仲間もいるだろうが、仕事後の飲み会で愚痴を言い合いながら非生産的な時間をともにした者が退職後に集ったところで、有意義なものには高まらない。老年期を無為に過ごさないためにも、仕事に人間らしい活気を取り入れることは必須である。)

 (これまで名人芸のように扱われていた、アイデアのひらめきを論理的に導くことができるKJ法。それによって、至難の技でありながらも仕事の肝となる、直観とロジックの融合を実現したい。それは資本主義に人間らしさを加えることにもなるだろう。グローバリズムや分業制、後進国の発展などますます一筋縄ではいかない複雑な現状だからこそ、その課題、場所、人間ならではの肌感覚に基づいたオリジナリティある解決策が求められる。しかし実態は、日々の仕事においても深い独創的な思索が軽んじられ、すでに誰かに仕立てられた既存の仮説や論理ばかりを尊重している。大企業や国家レベルの大きな事業などは言わずもがなである。さらには、既存の仮説を実務で遂行する社員にとって、仕事はすでに分かっている結論を実地で確認するような単なる作業となってしまい、自ら創意工夫して仕事に臨む意欲が削がれる。それによって日々のメリハリがなくなり、ただのロボットとして働き、ストレスを溜め笑顔も消えてしまう。行き着くところは自殺である。)

 これらの無限に続く地獄をぬけだすためにも、KJ法で経済の人間らしさを取り戻さなければならない。KJ法で人間らしい本音の経済と政治を手に入れたいのだ。


来週に続きます!


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