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陽明学と団結主義で人間らしく生きる/不破静六


宇宙と調和

陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで人間が真に人間らしく生きる道を示した。人間が生まれつき備えた絶対的霊性である「良知」の絶対現在に、各人が工夫の全力を傾注することで、新しい創造的主体のあり方を設定したのである。

[陽明曰く、]たとえば竹園の竹は、その枝や節が同じく竹でさえあれば、それが大同というものだ。どの枝も節も、同じ高さ同じ大きさにそろえねばならぬと限定したりするのは、造化の妙手にそむくものだ。
きみたちは、ただ良知をこそ培養すべきであり、良知さえ同じならば、あとは各自がそれぞれの流儀でやっていけばよい。きみたちがもし、(その根本のところに)功夫を加えようとしなかったら、枝や節をとやかくいう以前に、まず筍さえ生えてこないのである。

荒木見悟1974「近世儒学の発展——朱子学から陽明学へ——」
『世界の名著続4』中央公論社、p.71

つまり陽明によれば、竹そのもの(良知)の培養こそ第一義のことであって、枝や節(つまり良知の判断による結果)の同異に気を奪われる必要はないというのであろう。
[陽明が、]そこに生じ得べき個物相互間の矛盾撞着の問題に、どれほど明確な見通しをもっていたかは疑わしい。しかしそれにしても良知の絶対現在に、各人が工夫の全力を集中すること、そこが人間が人間らしく生きる道のアルファでありオメガであると断定し、良知以外のいっさいの権威を拒否したことは、単に理の拘束から脱却すべき方向を指摘したに止まらず、新しい創造的主体のありかを積極的に設定した点において、中国思想上画期的業績といわねばならない。そしてここにこそ陽明学の一特徴が見られるのである。

同上

そして、自分の心の本体から生まれた知識や行為でなければ、いくら博識と篤行で飾られていようと、それは空虚なものとなるのだ。

すでに格物致知を、客観界の事物に即して知識をきわめるのではなく、自らの本心(心の本体)により、それぞれの事行の場に即して理を生みなすことだと理解した陽明にとっての最大関心事は、「知ること」にせよ、「行なうこと」にせよ、人間の能力のすべてが、本心そのものにおいて荷われ、本心そのものから発しているか否かということにしぼられて来るであろう。
本心を疏外した知や行、あるいは本心よりずれたところに起因する知や行、それはどのような博識と篤行によって装飾されていても、真に本心を満足させる知行ではない。そこでどのように知と行とが緊密に結合しているにしても、陽明のいう知行合一論とは異質のものである。陽明のいう知行は、徹頭徹尾、本心の自己発展・自己充足としてのそれでなければならない。

同、p.43

王陽明は朱子学の影響を強く受けたのであるが、朱子が万物を支える理の存在を見極めてこその判断を重視する中、王陽明は一瞬一瞬に生まれる良知に基づく自己判断を主張している。

つまり、朱子は、万物を支える理の存在を見極めてこそ、その場に応じた判断と行為が可能となると主張する一方で、王陽明は規定の理に依存するのではなく、自己の衝動から瞬間ごとに生まれる良知を指針として、どういった理を掴み取るかを自ら判断すべきとしたのだ。

陽明の良知説は、所与の理に安易によりかかろうとする意識を、偽善と怠惰の根因だと指弾し、理は常に自己の全責任において荷われてこそ心の満足が得られるものであるから、刹那々々、良知によって検証され措定されなければならぬとし、この良知のやむにやまれぬ自己内衝動によって判断し行動することが、人間としての第一義であり、聖学のかなめであるとされるから、最初から一定の完結せる教学として授受されることを拒否する実質をもっていたのである。

同、p.56

朱子は外部の理を重視し、王陽明は内部の良知を重視するという対照的な立場を取っているのである。陽明によると、内なる良知を信じ、それに従って行動することが人間の本来の生き方であり、創造的に生きるということだ。そのために、万物に共通する固定化した理に依存するのではなく、瞬間瞬間の良知に基づく自己判断を重視し、自らの本心から生まれる知識と行為に全力を注ぎ込むことが重要となる。

陽明学を修め私塾を開いた大塩平八郎(中斎)は、心のほうが身体を包んでいると悟ることで、ものを超越し支配することを知ることができると述べる。

身体からいえば、身が心(こころと心臓の両方の意味)を包んでおり、心は身の内にある。道という観点からすれば、心が身を包んでおり、実は心の内にある。心が身の内にあると思っているものは、いったん「操存」という実践を忘れてしまうと、物が我れをしばる。身が心の内にあるのだと覚っているものは、いつも、ものを超越するというすばらしさを獲得していて、我れが物を支配する。物を支配するのと、物にしばられるのとの区別を、学徒は知っていなければならない。

大塩中斎、松浦玲訳「洗心洞箚記」1978『日本の名著27』中央公論社、p.75

物にしばられない融通無碍な心を手に入れることで、その時々に応じて最良の理に至ることができる。心臓が裏返って全身を包み込むような逆説が、致良知の根本となる。

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束縛を逃れた心が動く一瞬ごとに、天理を現出するよう心がける。それを達成できれば、志を立てることができる。その不断の積み重ねによって、ついには天理を、心そのものへと確実に宿すことができる。

問う、「志を立てるとはどういうことですか」
先生がいう、「(心が動くその)一念一念に天理が顕現するようにする、これが他ならぬ志を立てるということだ。ことがちゃんとできれば、やがて久しい間には(天理は)おのずと心に確固とした物になる。つまり道家にいわゆる『胎内に聖を宿す』というものだ。この天理の念が不断に保持されることによって、やがて『美』から『大』へ更に『聖』また『神』へと達するのだが、それもつまるところ、この(天理の)念をもとに、それが十全に充実発展したものに他ならない」

王陽明、溝口雄三訳「伝習録 上巻」1974『世界の名著続4』中央公論社、pp.344-345

しかし、瞑想や内省などの観念的な努力だけで天理に手が届くかというと、そういうとこではない。

李延平は、そもそもの朱子が教えを乞うた儒学者である。延平によると、真理に至るに主観的な仏教の悟りだけでは不十分であり、加えて客観界を貫く実践的な条理を見抜く必要があるという。

朱子が同安に在任したのは約四ヵ年であるが、その間、彼の生涯を決する思想上の一転機を体験する。それは李延平(りえんぺい)に出会ったことである。(中略)延平はもと、楊亀山から羅豫章へと伝えられた「黙坐して心を澄し、喜怒哀楽がまだ発しない以前の気象をきわめる」ことを工夫の中心にし、静態におけるこの根本を確立してこそ、客観界への見通しもきき、動態における適切な対応も可能だと考えていた人である。大慧禅のように、現実界に向かって向こうみずな突撃を敢行することは、見かけだおしの勇猛に終わるだけだということになるのである。

荒木見悟1974「近世儒学の発展——朱子学から陽明学へ——」
『世界の名著続4』中央公論社、pp.14-15

ここで延平が、「本体と作用が合致する」と述べているのには、彼なりのねらいがあったようである。それは仏教で説く悟りというものは、たしかにそれなりの力強さがあり、生命の躍動があるにしても、その「本来面目」「見性成仏」と称するものは、要するに心の根本を確立しようとするだけで、具体的な実践場裡における規範(理)の探求や措定には全く無関心であり、無力である。
ここの体験場面における作用が、寸分のたがうことなく的中するためには、客観界のしくみ、そこを貫く条理を見ぬく必要がある。それでこそ本体と作用との一致が確信できる、と延平は考えたのであった。

荒木見悟1974「近世儒学の発展——朱子学から陽明学へ——」
『世界の名著続4』中央公論社、pp.15-16

主観と客観の両方をしっかり見抜き、心の動き一つ一つに天理が現れるよう意識すると真の志が立つのだ。そうして、確固たる天理を、心に宿すことが可能となる。全身は自由自在な心にすっぽり覆われる。

王陽明は、人間が生まれつき備えた「良知」の絶対現在に全力を傾け、創造的に生くべしと提起した。さらに、日本の超国家主義者である大川周明も、人生の究極の理想とは、神に従い各人の才能にあった事業に就かせて、個性を発展させることにあると、西洋と東洋の先哲に倣って述べている。(この理想は、ただ仕事をするだけではなく、自分の才能や興味を最大限に活かすことで、より意義深い人生を送ることを目指している。)

然らば吾が踏む可の道とは何ぞや。換言すれば究竟の理想に到達すべき手段は何ぞや。再び換言すれば人生の本務は何ぞや。曰く。個性の発展これなり。釈氏の言ふ己利の逮得これなり。而して哲学の云ふ自我の実現これなり。 ルツソー曰く、渾円球上一人の全く不用なる者あることなし。凡ての人は果すべき或る義務を有すと。サー、タマス、 ブラウン亦曰く、神は世界の各異の事業に従ひて人類の才能を区分し、而して従ふべき業務の異なるに従ひて其性癖嗜好を異ならしめたりと。万古の真理此中に在り。

大川周明1906「吾は個人主義者也故に吾は社会主義者也」
大川周明関係文書刊行会1998『大川周明関係文書』芙蓉書房出版、p.47

西郷隆盛の遺訓にも次のような言葉が残っている。有名な「敬天愛人」について話している部分だ。

人が踏み行うべき道は、つねに上に天があり下に地があるように、人為が作り出したものではなく、天によって与えられた道理を実践することであるから、天を敬うことを目的にしなければならない。天は他人も私も区別なく愛されるのであるから、われわれは自分を愛する心を持って他人をも愛することでなくてはならない。

西郷隆盛、猪飼隆明訳、2017(1890)『新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想』
KADOKAWA / 角川学芸出版、Kindle 版、p.107

(つまり、単に生きるために働くのではなく、真の幸福や満足感を追求することが重要だということ。)天から受けた使命を全うし、自分と同じく他人を愛し尊重する心を忘れずに個性を育むことで、人は食べるためだけでなく、真の生きる意味を見出すことができる。(しかし現実は、日々食べていくために働くという態度が、人々のうち大多数を占めている。)

夫れ個人主義は吾が確く操る所なり。個性の発展が人生の本務なる事は吾が固く信ずる所なり。是を以て吾は多くの人(希くば尽くの人)をして吾が信ずる所を信ぜしめん事を欲す。即ち各人をして皆其の個性を発展せしめんと欲す、其の天成の性を遂げしめんと欲す。而して更に一歩をすゝめて主義の実行信仰の体用に最も適する所の社会に住まはしめんと欲す。
而れども今ま飜つて現代を顧みれば果して如何。吁、何等惨々の世態、何等槍々の社会。さはれ吾れ更めてこゝに之を説かじ。願はくは同情の眼を開いて街頭に立ち右往左往の人衆を見よ。そは晦渋なる吾が筆を以てするよりは億万層の深き印象を諸君が頭脳に刻むべき也。
食はんが為に生くるにあらず生きんが為に食ふなりと。孩提の児女も知らざるなし。而して見よ。貧富の縣隔は人を駆りて生きんが為に食はずして食はんが為に生きしむるに非ずや。

大川周明1906「吾は個人主義者也故に吾は社会主義者也」、p.50

アジア主義の統領、頭山満も、西郷隆盛の遺訓を解説して次のように述べる。

「誠は天の道なり。これをして誠ならしむるは人の道なり」と古聖人の教えにある、あそこのことじゃなあ。 世の中に自分より可愛い者はない。と、そう合点がついたなら、それと同じように、人も可愛がってやらねばならぬのじゃ。ここは先に言った、自分の悪いことは、人にも悪いことと考えるところを反対に言ったままで、自分が欲しいものなら、人もやはり欲しいものじゃから、自分を愛する気持ちで、人も愛せよと言われたのじゃ。
人間には誰にでも、天から受けてきた使命がある。百千万人が百千万人とも、皆その顔が違っているように、皆千差万別の使命がある。それが人間の天職というもので、その天職を行うまでの話じゃ。 食うて生きるということなんぞは、働いてから先の話じゃが、「禄その中にあり」と言ったのでは、間尺に合わんと思う者が多いのじゃ。そこで天職の遂行よりも、衣食が先になり勝ちとなる。
立派な奥さん方が万引きなんどをするようになるのも、一時の出来心と言って済まされんのじゃ。心に曇りが掛かっているからのことで、「君子は睹ざるに慎み、聞かざるに懼る」る慎独の工夫が欠けているから、事々に迷いの雲だらけとなるのじゃ。

『大西郷遺訓』出版委員会1996(1925)『大西郷遺訓―立雲頭山満先生講評』
K&Kプレス、Kindle 版、p.54

大川周明曰く、本来ならばどのような人であれ、自分のやるべき天命に対して懸命であれば、完全なる個性の発展を遂げて宇宙大霊と一体化することができる。(これにより、最終的には個人の成長が全体の調和にもつながり、宇宙の一部としての自分を感じることができる。)

夫れ斯くの如き見地よりすれば、田園に耕して蔬菜と米穀とを供する人と、牧畜に身を捧げて肉と乳とを給する人と、廟堂に国家を料理するの人と、学理の研鑽に生を送るの人との間に些の優劣なく貴賤なし。労働は神聖にして職業に差等ある事なしとするカーライルが絶叫は人人如是の自覚の下に孜々たるに於て始めて其真意義を発揮せらるべきものなりとす。
かくの如くにして人生皆な由りて以て個性を発展すべき一の職業を有せざる可からず。換言すれば一の事業に由りて其の個性を発展せしめざるべからず。而して其事業や若し宇宙の傾向に相背違することなきに於ては大統領たると車力たるとを問ふことなし。支那の人称して技神に入ると云ふ。此語簡にして意は即ち深長、よく万古の真理を道破せるもの、人もし其努むる所に専念懸命なればこゝに完全なる個性の発展を遂げて宇宙大霊の一部を合し、造る所作す所、誠にこれ無等々なるを云ふ也。
之を古今に稽るに、人、一事に精しく一物に達せば不知不識の間に人品の高潔を致し気宇の宏大を来し、往々にして悟道に入るあり、而してかの無為道を求めて或は冥然天造に任ぜんとし或は凝然寂定に帰せんとするもの却つて猖狂に流れ枯寂に陥るを見る事屢屢なり。即ち知る、個性の発展はこれ宇宙の大霊が人類に賦課せる絶対義務にして此義務あり茲に吾人は大霊と一致合体せん事を憧憬する絶対権利ある事を。見よ、如何に霊妙の作用や、相反せる二個、権利と而して義務とは是に於て其の円満なる調和を有するにあらずや。

大川周明1906「吾は個人主義者也故に吾は社会主義者也」、p.49

陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで真に人間らしく生きる道を示したものである。良知の絶対現在に各人が工夫の全力を集中することを人間らしく生きる道と断定し、新しい創造的主体のあり方を設定したのだ。翻って言うと、自分自身の内的衝動から生まれた知識や行為でなければ、いくら深淵で徳が高いように見えても、その知識と行為は表層的に過ぎないということだ。

そのため大切なのは、心が全身を包むのだと悟り、一瞬ごとの心の動きに天理を見出すことだ。それを続けることで真の志を立て、遂には確たる天理を心に宿すことができる。とはいえそのためには、主観的な悟りだけでは不十分で、客観的な実践的条理を見抜くことも必要である。
天からの使命に従い、自己と他者への愛と尊重を忘れずに個性を育むことで、人は真の生きる意味を見出し、宇宙と一体化できる。これは、自己満足や成功を超えた、より深い意義のある人生に直結することである。しかしながら、実際の人間生活を観察すると、ただ食べるために働くという本末転倒に終始しているのが現実である。

自己喪失

現代においても、適切な目標設定と問題解決能力を持つことができれば、社会的分業における各人の存在価値を見つけることができる。それができずに、単に食べていくために働くことにとどまると、その結果は悲惨なものとなる。なぜなら、テクノロジーが圧倒的な速度で進展する現代においてますます、人間が人間らしく生きるために、自分の生まれてきた意味を自覚することが求められるからだ。しかし、そうした存在意義を見つけるための第一歩として必要となる、「自己を知ること」こそが、最も険しい難所になっている。

コンピュータ以上のことをしなければ人は存在価値をなくしていくかもしれない。それは何か。私は当分のところ、「問題解決能力」だと思う。問題解決と言っても、与えられた問題の答えをマニュアルや公式にしたがってはじき出すことではない。 現状において何を目標とし解決すべきか、解くことができてかつ解ければ価値のある問題の設定はどうするか、そして、それを実際にどう解くかというのが問題解決である。それは、研究においても、企業においても、家庭においても同じことである。

金出武雄2018(2012)『独創はひらめかない―「素人発想、玄人実行」の法則』
日本経済新聞出版社、Kindle 版、pp.97-98

君子仰ひで天を視、俯して地を視、中にして人を察するに凡そ其の長をとれば棄物棄才あることなしと。これ徂徠の言なり。先に掲ぐる所のブラウンの言と含蓄する所に於て殆ど相等しく而して両者を相合して更に完全なる真理たるべきもの也。将たるの資あり。卒たるの質あり。詩人たるの資あり。学者たるの質あり。農夫たるの資あり。政治家たるの質あり。凡そ社会に存在して之が発展を扶する千種万様の事業に対して各人は其敦れかに最も適せる所の稟賦を有す。而して太霊の深旨は(エマルソンの言をかりて言へば)各人をして其最も適する所の事業に対して趣味と嗜好とを有せしむ。
真にこれ人類社会の根本的分業の理法ならずんばあらず。於是乎人生の第一歩は先づ自己を知るに始まる。但し是れ難中の至難、心虚しからずんば性遂に現ずべからず。虚栄心や利己心や乃至千百の私心は吾人を駆りて東すべきに往々にして西せしめ、南すべきに往々にして北せしむ。

大川周明1906「吾は個人主義者也故に吾は社会主義者也」、p.48

そして、三島由紀夫の指摘するように、絶望の存在する所に必ずファシズムの萌芽が潜んでいる。(自己の存在価値を見失った人々は、自分の人生に意味づけを与えてくれる極端な思想に引き込まれやすいのだ。)

暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息している。今日店頭で売られている雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫しているのを見れば、いかにいたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに興じたりしているかがわかるだろう。
同様にファッシズムも普遍的である。ことに廿世紀に於て、いやしくも絶望の存在するところには、必ずファッシズムの萌芽がひそんでいると云っても過言ではない

三島由紀夫1954「新ファッシズム論」
三島由紀夫著、小川和佑編1984『生きる意味を問う——私の人生観』大和出版、p.205

自己を適切に理解することが困難なために、人々は現実の社会での自らの果たすべき役割を見出せず、絶望の淵に落ち込む。その悲観の中にこそ、三島の言うように、ファシズムが生まれる萌芽がある。

ここでファシズムの呼称を、ナチスのように特定の思想で社会を覆ってしまおうとする全体主義という意味で使えば、それは唯一の普遍的な理を求めて形骸化していった朱子学に近づいて、陽明学の思想とは相容れがたい。しかし、イタリアの初期ファシズムのように、様々な思想的社会的背景を持った人々が団結して社会を変えるという、団結主義の意味で考えると、むしろファシズムは陽明学に近づいていく。

すなわち、どのように生きるべきかという刹那ごとの良知をおさえ、各人が食べるだけでなく天命に従うために生活することは、社会全体の究極的最適化を促進し、天網恢恢疎にして漏らさず、できるだけ寛容なファシズム(団結)を実現させる可能性を持つのである。絶望の奈落に落ち込んで、切実に自己理解を希求する段階になってようやく、この重要性が身に染みてくる。

しかし、それだけでは単なる理想論に過ぎないではないか。いったい自分は何をしたいのか、何をすべきなのか、そこが分からなければ話は先に進まない。呻吟しながら気の遠くなるような自問自答を重ね、ようやくこれだと掴んでも、それが正しいという確証はどこにもなく、たちまち不安に襲われて手の中の結論は雲散霧消して結局は振り出しに戻る。陽明学の志は高しといえども、それを具体的に実践する方法論は確立してこなかったのである。つまり自分がどのように人生を歩むべきかという不安を克服できないと、堂々巡りの議論に陥り極端な思想で自らを慰めるしかなくなる。

それに対して、川喜田二郎が考案した「KJ法」が有用な示唆を与えてくれる。KJ法とは、気づきや意見、アイデアなどのデータをカードにひとつずつ書き出して、それをボトムアップでまとめることで、思ってもいなかった仮説を得る発想法の一種である。これが、創造的社会の隘路となっていた自己理解の困難を解決するための、誰にも開かれた技法となりうるのだ。川喜田二郎は自身の内面的体験を次のように綴る。

まず彼は、我と個性とは違うことを悟る。我を捨てた時、個性が躍動するのである。そして個性はすべて美しい。すばらしい。KJ法の作業でいうと、既成概念にあわせてラベル集めや表札づくりをするのを「我がある」という。これでは個性は窺われない。おのれを空しゅうしてデータをして語らしめると、結果的に[KJ法の]作品の上に、「彼ならでは・・・・・・」の個性が躍動する。我を去って個性の花が匂うのである。

川喜田二郎1996(1986)『川喜田二郎著作集 第5巻 KJ法——渾沌をして語らしめる』、p.451

KJ法は、以上のような性格を秘めつつ、渾沌から秩序を生むことに成功している。しかも最も大切至極なことは、既成の概念や理論や希望的観測を適用して揮沌を料理するのではなく、渾沌をして語らしめておのずから成る秩序を生むのだということである。もっと詳しく理屈っぽくいえば、次のようになるだろう。すなわち、 KJ法は、さまざまな心の筋肉を、弁別しつつ自然な順序で累積的に行使し、問題解決の正道を践ませることにより、渾沌に語らせて秩序を生む道なのである。

同上、p.456

このKJ法については、従来から時間がかかりすぎるとの批判があった。本研究結社では、生成AIを用いて精度は保ちつつ所要時間を大幅に短縮するアプリを作成した。OpenAIのAPIキーがあれば誰でも無料で使用できる。

天命任用

国の政治を行うことは天命を実現することであるから、出自の利害や権威の座にこだわることなく、全国から相応しい人物を選び登用すべきだ。(特定の家系や地位に固執することは、真のリーダーシップを発揮できる人材を見逃す結果になる。国民全体の幸福と発展を目指すためには、もっと広い視野で適材適所を見極めなければならない。)

天皇の政府の役人になり、政治を行うということは、天から与えられた道理を実現することであるから、少しも私自身や出身藩や出自の利害にこだわってはならない。
どんなことがあっても、心を公平にして天の道理を実践し、日本全体から賢人を選び、その職にふさわしい人物に政権を担当させる、というのが天の意志である
だからこれこそ賢人だと思われる人物のいることがわかったなら、すぐにでもその人に職を譲ることができなければいけない。維新の変革にどれだけ功労があっても、その褒賞として、本来ならその職を任せられない官職につかせるのは、最もよくないことである。

西郷隆盛、猪飼隆明訳、2017(1890)『新版 南洲翁遺訓 ビギナーズ 日本の思想』
KADOKAWA / 角川学芸出版、Kindle 版、pp.14-15

国の政治を行うことは単なる権威の保持ではなく、天命を実現するための重要な役割である。だからこそ、公平で公正な人材登用が求められ、それが真のリーダーシップを発揮するための基盤となる。国の未来を切り拓くためには、出自や地位にとらわれず、才能と志を持つ人々を適材適所に配置することが不可欠である。

このように考えると、選挙制度によって為政者を決める仕組みは破綻している。一介の人間如きが天命に代わって政治家を選ぶことは本来できないはずだ。代替の案として、前述のKJ法にて世論調査をする試みが挙げられる[川喜田 1996(1986)、pp.226-230]。己を空しくして、民衆の声を結集させることにより、人為を超絶した天の道理を政治に反映できるのではないか。

歴史は、じっさい、こういう事態にさしかかったときにそういう独裁者をしばしば要求したように見えます。独裁者には、はじめから「こうするのがよいのだ」という原理原則があり、これに基づいて演繹的・合理的な施策が実施されるわけです。
もしもかような独裁者の道が民主主義の今日望ましくないというのなら、われわれは衆知を集めるという「くみたて民主主義」の道を、もっと探らねばなりません。

川喜田二郎1964『パーティー学』社会思想社、pp.278-279

全体のまとめ

陽明学は、自らの心の本体から生まれる知識と行為に全力を集中することで真に人間らしく生きる道を示し、創造的主体のあり方を設定したものである。思想的源流となった朱子学は普遍的な理を重視する一方で、陽明学は瞬間の良知に基づく自己判断を重視している。そして後者は、良知の絶対現在に各人が工夫の全力を集中することを人間らしく生きる道と断定し、新しい創造的主体のあり方を設定したのである。それゆえ、自分の心の本体から生まれた知識や行為でなければ、いくら思慮深く徳の篤い姿で装飾されていようと、それは虚ろなものとされる。

ゆえに、自分の本心を大切にして、そのこころが身体を包むと悟ることが求められる。そうした心の刹那の動きに応じて自分なりの良知を見出すことで、真の志を立てて心に天の道理を宿すことができる。そのためには、主観的な悟りだけでなく、客観的な実践的条理を見抜くことも重要である。そのようにして、人は天からの使命に従い、自己と他者への愛と尊重を忘れずに個性を育むことで、真の生きる意味を見出し、宇宙と一体化できるはずであある。単に食べるために生きる、といった消極的姿勢を超えた、より深い意義のある人生を追求することが重要だ。しかし、大多数の人々は、食べていくのに必死で、天命を生きることなど思いもよらないで生きている。

そしてそれは、そもそも適切な自己理解を行い天命を見出すこと自体が、普通の人間にとってとてつもなく困難であることに起因している。ただ暮らしていくためだけに働く人々は社会で自分の存在価値を見出せず、絶望の底に落ち込んでゆく。しかし、その絶望の中にこそ、できる限り寛容な団結を目指す意味での、ファシズムが生まれる可能性が隠れているのもまた真である。そうした団結を現実化するには、まず矛盾に満ちた自己の理解を実現しないといけない。その時に有用となるのがKJ法であると述べた。技法の創始から半世紀経た現在、時間がかかりすぎると批判されてきたKJ法の欠点は、生成AIの発展により克服されようとしている。

また、政治の舞台に登る人材についても、KJ法を用いて自らの我を離れながら、世論を明らかにして各人の資質を見出すことができれば、現行の選挙制度に対する新たな代替案を示すことができるだろう。それによって天命を実践するという政治家本来の役割を果たすことが可能になる。

テクノロジーを駆使して、陽明学でいう良知を追求し、団結した社会を築き上げる。そうして人々は、自分が生まれてきた意義を自らが生きる世界において見出すことができ、創造性にあふれた人間らしい人生を歩むことができるのだ。

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