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ゲーム、アニメ、アメコミ、映画、特撮など全方位的に関心がややある。 こんなアカウントが…

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ゲーム、アニメ、アメコミ、映画、特撮など全方位的に関心がややある。 こんなアカウントがあったことを思い出したので投稿してみる。

最近の記事

パリの映画、東京の映画

最近ヌーヴェルヴァーグとかその周辺の映画を見て思うことなのですが、なぜ東京を舞台にした映画はパリを舞台にした映画のようには撮れないのか、ということです。 これは具体的な作品名が何かあるわけではないのですが、何となくパリを舞台にした映画はパリとはこういうものだ、というコンセンサスがあるように思います。 他方東京になると例えば新宿を舞台にした映画、渋谷を舞台にした映画、池袋を舞台にした映画、というものがあったときに東京というコンセンサス、東京を舞台にした映画、という意識は生まれ

    • 目指せ年間100本鑑賞!~Z世代のための名画座入門

      前書き 映画について語りたいなら年100本は見ないといけないらしい。そういうツイートが流れてくる。 なのでこの記事では年間100本の映画を映画館で鑑賞する方法を紹介する。タイトルにある通り、名画座へ通え、というものである。最初から映画館へ通うつもりだという人は2から読んでもらって構わない。映画館で見る必要はないのでは?と思う人、その通りである。しかしこんな記事を書くのでなぜ映画館で見るのかという理由も1で上げてみた。興味があったら読んで欲しい。 また著者が住んでいるのが東京

      • 読書感想文 『テロルの原点 安田善次郎暗殺』

        この本は、最近暗い時代になったとか、何か日本は悪い方向に向かっているのではないか、と不安に思う人にとって多くの示唆を与えてくれる。 なぜならこの本に描かれる人物「朝日平吾」こそ日本の行く先を憂い行動を起こした人物だからである。大正、昭和期の一定の人々にとって彼は英雄であった。他方で現代においては彼こそが戦前、戦中日本の暗黒期を招いた元凶だとする人もいる。少なくとも戦前において「朝日平吾」とは一つの課題であったし、多くの知識人がそれに取り組んだ。この本の著者中島岳志は半ばロマン

        • メタモルフォーゼのグロテスクさ~ブルース・ビックフォードとチャーリー・バワーズに寄せて

          チャーリー・バワーズの作品、特に『たまご割れすぎ問題』を見るとそのイマジネーションの豊かさとそれを映像として表現しきってみせる手腕に驚かされる。 たまごから車が生まれるというアイデアにはバワーズの他作品にもみられるような、しかし原初の映画たちが隣接することは必定であったろうテクノフィリアが見られる。それはクローネンバーグ的とも言えるのだが、こちらの論点は掘り下げない。 むしろたまごから車が生まれる、そのアニメーション、たまごから車への変容、メタモルフォーゼこそが私の反芻した

        パリの映画、東京の映画

        • 目指せ年間100本鑑賞!~Z世代のための名画座入門

        • 読書感想文 『テロルの原点 安田善次郎暗殺』

        • メタモルフォーゼのグロテスクさ~ブルース・ビックフォードとチャーリー・バワーズに寄せて

          ディズニーランド試論 機械と物語

          ディズニーランドのアトラクションにあるあの奇妙な魅力は何なのだろうか。 心が奪われるという言葉がある。あのテーマパークにはその言葉がふさわしい。あそこにいる間にはそのことに気づかないが、帰ってから、あるいは日常に戻った数日後にそのことを思わせるのである。 夢と魔法の国とはよく言ったもので、あれはまさに夢といいうるものである。私たちはあそこにいた。しかしそれは覚めるのだ。 ディズニーランドのアトラクションは物語を重要視しているという。それは脚本を重視するディズニーの映画の作り

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          VIDEOPHOBIAの奇妙さ

          宮崎大祐監督作品『VIDEOPHOBIA』は事前情報を仕入れて鑑賞すると、一層奇妙な映画に映る。 私も公開時に注目していて、見に行きたいと思いつつ見れなかったので先日U-NEXTで鑑賞した。 それなりにあらすじも知っており、予告編を見ていた。 鑑賞者が知るべきとされるその手の情報を仕入れると大体その映画がどのような映画かは分かるものである。それが分かるのに映画ファンかどうかに関係ない。広告はイメージ戦略であり、予告編やあらすじ、あるいは監督のインタビューといったメディアは映画

          VIDEOPHOBIAの奇妙さ

          すずめの戸締まりについて

          辿々しさでしか語れないものがある。 これはそういう作品であると思う。 こういうとき、アニメを語る、というプロジェクトは試されているのだろう。 この作品を語ることの難しさは、ひとえにあの震災が自分にとって何だったのか、赤裸々に語るように突きつけられているように感じるからである。 被災と癒し、あるいは回復。 それを狙ったのだろう。 しかしこの映画は復興についての映画ではない。 むしろ生と死が人間にとってなにかを深く問いかけるものとなっている。 この作品の持つイメージがジブ

          すずめの戸締まりについて

          イメージの批評

          今行われている映画とかアニメの批評を他方では拒否する。それがイメージの批評である。 それはかつて感想文と呼ばれていた試みをラディカルに肯定するものである。 イメージの批評は作品から受け取ったイメージをテキストとして再現する。 イメージの再現、それは作品が私に与えたものを反芻することによって、自ら作品を再構成するものである。 これは決して意図をないがしろにした受容者特権を説くものではない。 自分が作品によって得た経験が必ずしも作者の意図と離れるわけではない。 自分の経

          イメージの批評

          まんが日本昔ばなしと不気味なもの

          導入 先日『人志松本の酒のツマミになる話』を見ていると昔見ていたテレビで印象的なシーンがあるという話があった。 その中で千鳥の大吾が『まんが日本昔ばなし』のエンディングが怖かったという話をしていた。 オンエアではその映像が流れたのだが、「にんげんっていいな」に合わせてキャラクターたちが単調に動くものであった。 これを見て何が怖いのか分からないと思う人がいるだろうと思う一方で、確かに怖いと思う人も一定数いるように思われる。 私は後者なので、このnoteではこの『まんが日本昔

          まんが日本昔ばなしと不気味なもの

          NOPE 意外性のなさという意外性について

          ややネタバレがあります。 この映画にある種の仕掛けを期待すると肩透かしを食らうかもしれない。 私がジョーダンピールの映画に期待するものは「表面的には~だけど実は・・・」というものだ。 『ゲットアウト』においては「黒人男性を歓迎しているように見えるが実は・・・」という構造、『アス』は「私たち(US)は実は・・・」という構造を持っている。 映画が社会問題の寓話になっていること、それが映画を「見ていく」ことによって明らかにされること、そして観客にそれが明かされることにカタルシス

          NOPE 意外性のなさという意外性について

          ゲームと攻略と集合知

          ゲームの攻略って集合知ありきだよなと思う。思った。ありきではないと思う実際には。 社会活動はしばしばゲームに例えられる。就職活動はゲームとか営業活動はゲームとかそういうやつだ。こういうことを言う時にたいていはゲームであることよりもむしろゲームであるから攻略法があることの方が強調されていると思う。 ゲームに攻略法があるとすればそれはゲームが「可変かつ数量化可能な結果」と「結果に対する価値設定」、そして「プレイヤーの努力」を有するからだろう。この3つはイェスパー・ユールの『ハ

          ゲームと攻略と集合知

          The Last of Us(初代)レビュー ゲームにおいて選択できること、できないことあるいは暴力の必然性

          このゲームで最後に操作することになるキャラクターはエリーである。そこに選択の余地はない。  ゲームにおいて選択できるものを考えるときに真っ先に浮かぶものは攻略である。教科書のような攻略がある一方でプレイヤーそれぞれが個性的な攻略を生み出すことも可能である。  ゲームのいわゆる自由度の上昇は攻略の多彩さをもたらした。先に進むために様々な道が用意された。敵を倒すか倒さないか、右の道から行くか左の道から行くか、どの道具を使うのかあるいは使わないのか、こういった選択肢はゲームの発

          The Last of Us(初代)レビュー ゲームにおいて選択できること、できないことあるいは暴力の必然性