メタモルフォーゼのグロテスクさ~ブルース・ビックフォードとチャーリー・バワーズに寄せて

チャーリー・バワーズの作品、特に『たまご割れすぎ問題』を見るとそのイマジネーションの豊かさとそれを映像として表現しきってみせる手腕に驚かされる。
たまごから車が生まれるというアイデアにはバワーズの他作品にもみられるような、しかし原初の映画たちが隣接することは必定であったろうテクノフィリアが見られる。それはクローネンバーグ的とも言えるのだが、こちらの論点は掘り下げない。

むしろたまごから車が生まれる、そのアニメーション、たまごから車への変容、メタモルフォーゼこそが私の反芻したいものである。
たまごから車が生まれるという奇妙さ。それをそういうものだとして映像で見せられる限り、私たちはそのユーモアを笑うばかりであろう。

しかし、少し距離を取ってこの現象を見てみると微妙な不快感を覚えるのでる。たまごからは普通小鳥が生まれるわけだが、たまごを割れないようにこねくりまわした結果、車が生まれる。
この現象をユーモアとして受け入れるか、シリアスなものとして受け入れるかは次の解釈の差によるだろう。つまり、命を持った車が生まれたとみるか、生物が生まれるはずのたまごから全く無機質な車があたかも生命を持っているかのようにふるまっているとみるか、である。

全ての映像はフレーム単位では死んでいる。しかし、それが映像となることで生き生きと動いてみえる。
実際の生物を映しているうちはそれで済むが、アニメーションになると事態は複雑になる。生命を持っていないオブジェクトに生命があるかのように錯覚させるのがアニメーションである。そこで動くものたちは生命を持っていないどころか、動きをそもそも持ってはいなかった。
たまごが車へメタモルフォーゼせざるを得なかったのはアニメーションが扱いうるのは素材としては死んでいるオブジェクトに他ならないからである。

だから私がチャーリーバワーズの件のアニメーションに抱くのは車の生のイメージよりも、ありえたかもしれない小鳥の死のイメージである。

チャーリーバワーズは『たまご割れすぎ問題』をドキュメンタリーにする気はなかっただろうから、たまごから小鳥が生まれる瞬間を撮ろうとは思わなかっただろう。しかし、そのとき起こったのがたまごから車へのメタモルフォーゼだったとき、生命を吹き込まれた(アニメイトされた)車が図らずしも映し出したのはメタモルフォーゼされる前のたまごの死である。

ところでアニメーションにおけるメタモルフォーゼと生死というテーマで必ず名前を挙げなくてはならないのが「ブルース・ビックフォード」である。
ビックフォードはクレイアニメーションの名手で代表作には『プロメテウスの庭』などがある。
数年前には特集上映が組まれていたものの、日本では今なお見るのが難しい作家のひとりである。
ビックフォードのアニメーションでは土で作られたキャラクターたちが生まれたり、死んだりということを繰り返す。それはクレイアニメーションであるという特質を生かして溶けたり生えてきたりするメタモルフォーゼによって表現されている。
その見た目はグロテスクであるにせよ、そこではアニメーションの素材がオブジェクトであるというある種の開き直りが感じられる。
クレイはメタモルフォーゼによってその生を与えられることもあれば奪われることもある。傍から見れば神の所業だが(ビックフォードの作品の主題もそうだろうが)しかしそれはアニメーションの本質である。

だからアニメーションの最重要要素の一つであるメタモルフォーゼにはグロテスクさが伴う。

アニメーションにおけるメタモルフォーゼはアニメーションにおける自由さを語るために用いられることが多い。しかし、メタモルフォーゼはむしろアニメーション表現においてアニミズム的な根本的ダイナミズムを有しているのである。



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