すずめの戸締まりについて

辿々しさでしか語れないものがある。
これはそういう作品であると思う。
こういうとき、アニメを語る、というプロジェクトは試されているのだろう。

この作品を語ることの難しさは、ひとえにあの震災が自分にとって何だったのか、赤裸々に語るように突きつけられているように感じるからである。

被災と癒し、あるいは回復。
それを狙ったのだろう。

しかしこの映画は復興についての映画ではない。
むしろ生と死が人間にとってなにかを深く問いかけるものとなっている。

この作品の持つイメージがジブリ作品や細田作品の持つそれと似通っていることも一見してわかる。
この作品は日本のアニメが積み上げてきたものの上にあるのだ。

しかし、私にとっては他方で決定的に受け入れ難い作品でもある。

災いを描く、それが現代の具体的な災害であるときに、神話や民俗学的な解決が有効であるという物語は合っているのか?

端的に言えば寓話の域を出てしまったフィクションで、神話や民俗学的な行為が登場人物の内面の解決、回復にとどまることなく、具体的に災害を防げる、としてしまっているのは良いのか?という疑問がはっきり言って頭を離れないのである。

というのはもし、現実にこれから災害が来るかもしれないとして、つまり後ろ戸が開くとして、それを閉じれば災害は起きないのかと言われたら、いやこれはアニメでそんな訳ないでしょというはずである。

しかしこの作品では越権行為を、つまり虚構は何か起きてしまったことの事後に有効性を持つことはあっても何かの予防にはつながらない、という事実を無視してしまっている。

実際に有効なのは神話でなく科学ではないのか?そしてそれが近代ではなかったのか?

それは僕があの震災をどこか遠いものと、あのとききに断絶を感じてしまったことにあるのかもしれない。

この作品を目にして僕の前に投げ出されたのは他でもなく人間と虚構が持つ大きな謎である。

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