まんが日本昔ばなしと不気味なもの

導入

先日『人志松本の酒のツマミになる話』を見ていると昔見ていたテレビで印象的なシーンがあるという話があった。
その中で千鳥の大吾が『まんが日本昔ばなし』のエンディングが怖かったという話をしていた。
オンエアではその映像が流れたのだが、「にんげんっていいな」に合わせてキャラクターたちが単調に動くものであった。

これを見て何が怖いのか分からないと思う人がいるだろうと思う一方で、確かに怖いと思う人も一定数いるように思われる。
私は後者なので、このnoteではこの『まんが日本昔ばなし』のエンディングアニメ(以下EDアニメ)の不気味さについて考察してみたい。

分析


このEDアニメは1分ほどの長さである。「にんげんっていいな」の歌に合わせてシンプルな見た目のキャラクター、裸の子どもと一対の(2体ずつの)キツネ、クマ、ウサギ、モグラが踊る、というものである。
このEDアニメの構成要素を大まかに整理すると視覚的要素(絵、スタッフロール)と聴覚的要素の2つになる。
以下の分析では上記構成要素のうち視覚的要素に比重を置いて分析を行う。

EDアニメは以下9カットで構成されている。

c1イントロ 走り
c2クマの子~おしりを出した子一等賞 かくれんぼ(隠れる⇒みんな出てくる もういーかい、まーだだよというよりはだるまさんが転んだ的(前のクマが振り返ったときみんな出てくるため)
c3 夕焼け小焼けで~また明日 夕焼けバックに影のキャラクターが右に歩く 雲と草原(平原?同じキャラでも個性あり(傾きなど)
c4 いいないいな~にんげんっていいな 単純に左右に揺れる(メトロノームみたいに見える)、揺れるが表情は変わらない、キャラによって微妙に傾きが異なる?⇒ほとんど同じに見える
c5 おいしいおやつに~おうちへかえろ 夕焼けの方を向いて手をつないで踊る(足を交互に上げる)
c6 でんでん~バイバイ でんぐり返しとバイバイ、ウサギがいない
c7 いいな c4と同じ
c8 みんなで仲良く~おうちへかえろ 夕焼けをバックに円形のフレームにキャラクターが出現⇒順に消えていく
c9 c6と同じ

件のバラエティ番組で紹介されていたときには上記のうちc7,c8のカットが採用されていた。

では上記の何が不気味なのか。大きく以下の4つに分けられるだろう。

1 .単調な動き

キャラクターたちは動くわけなのだが、それは体を左右に揺らすにも単調な動きである。その動きは単調なだけでなく、アニメーション特有といっていい一定のリズムでさながらメトロノームのように見える。可愛らしいキャラクターが動いているにも関わらず、機械的な冷たさ、何か非人間的なものを感じ不気味である。

2.寸分たがわない表情

機械的、非人間的という意味ではこちらもそれを増幅させる役割を果たしているように思える。キャラクターたち、特に二人のこどもには硬直した笑顔が張り付いている。全く表情が変わらないまま体を揺らす姿は不気味である。

3.2対のキャラクターと「反復」

このEDアニメに登場するキャラクターはどれも2対で登場する。2対の人物、ドッペルゲンガーは死をイメージさせて不気味である。また、2対であることを「反復」と呼び変えることもできるだろう。このアニメにおける動きも「反復」であり、この「反復」のイメージも不気味さを支えている。

4.哀しげな夕暮れ

このアニメの背景(アニメの素材的な意味で)にも触れておこう。c5,c8では赤い夕焼けが背景になっている。幼心に夕焼けは1日の終わりという悲しさと夜の始まりという微妙な怖さがあったと思うのだが、それが不気味さを醸し出しているのではないだろうか。


結論

以上4つの不気味さを列挙してきたが、それぞれが独自に表れても不気味ではなかったように思える。重要なのはこれらの要素が集まってできているのが件のEDアニメであるということである。

最後にこの文章のタイトルにもなっている「不気味なもの」についても触れねばなるまい。この「不気味なもの」はもちろんフロイトの論文『不気味なもの』からとったものである。この文章は多くをフロイトの論文に負っており、フロイトは上記であげたような分析のより細かい分析を行っている。非常に参考になるため読んで欲しいのだが、一点だけ特に重要と思われる論点を取り上げたいと思う。

それは、不気味なものは、慣れ親しんだものや故郷が見知らぬ形や姿で現れるときに感じられる、というものである。

この論点が重要な理由は『まんが日本昔ばなし』が日本人にとっての故郷のような昔話、前近代的ともいえるもの、を、近代的なアニメーションというメディアで表現している、というねじれがあるからである。

もちろん昔話にも独自の論理や意味があろうが、しかしそれは基本的に近代的な合理性とは異なるもののはずである。アニメーションで昔話を表現する際にはメディアの合理性は隠すべきものになり、鑑賞者を物語に没入させる必要がある。それは本編ではおそらくうまくいったのだろうが、EDアニメではややそこが隠しきれていないものになっている。それが先の分析で明かした単調な動きや変わらない表情として表れている。

『まんが日本昔ばなし』の不気味さは、郷愁や親しみを表現しようとした際にきわめて合理的な近代メディアであるアニメーションを用いたこと、そして、その隠されるべき合理性が表に現れることによって「ねじれ」が見えたことによるものであると結論づけたい。

参考文献

Sigmund Freud(1919) Das Unheimliche ジークムント・フロイト 原章二訳(2016) 「不気味なもの」『笑い/不気味なもの』平凡社


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?