ディズニーランド試論 機械と物語

ディズニーランドのアトラクションにあるあの奇妙な魅力は何なのだろうか。
心が奪われるという言葉がある。あのテーマパークにはその言葉がふさわしい。あそこにいる間にはそのことに気づかないが、帰ってから、あるいは日常に戻った数日後にそのことを思わせるのである。
夢と魔法の国とはよく言ったもので、あれはまさに夢といいうるものである。私たちはあそこにいた。しかしそれは覚めるのだ。

ディズニーランドのアトラクションは物語を重要視しているという。それは脚本を重視するディズニーの映画の作り方と通ずるものだ。
しかし、そのことを意識してアトラクションに乗ってみると、もしテーマになっている話を知っているのであれば、そのスカスカ具合に驚くだろう。
自分が映画で見たあのシーンやこのシーンがない、こういう風にすればもっと感動するのに、など。それは映画が好きであればあるほどそう思うだろう。
それでもあのアトラクションたちは私たちを楽しませてくれる。それは映画の中に入ったという言葉では足りないものがあるからである。
例えば筋をなぞるだけ、といった言葉があるが、むしろあそこにあるアトラクションには筋しかない。私たちは揺れる乗り物に乗ってその筋を目撃する。
私たちは筋を補完することを余儀なくされるのである。この補完こそがアトラクションの魅力である。揺れの中で頭の中で補完される物語。そのとき観客と物語はともに唯一のものとなる。

ベンヤミンは映画が観客を同じようにするといったが、アトラクションにおいては観客は徹底的に孤独になる。
もちろん乗っている間はそのことに気づかない。映画的「間」を徹底的にはく奪したアトラクションはめまぐるしい展開によって映画を、物語を体験したかのように錯覚させる。

『美女と野獣』の映画で最も美しいシーンは「野獣の」王子とベルがダンスするシーンであろうが、アトラクションでは「人間の」王子がダンスするシーンしかない。

そこではティーカップの形をした乗り物が人間の王子とプリンセスとのダンスシーンの周りを踊るかの如く揺れて回るだけである。

しかし、そこでは既知の物語と異なる物語がそれぞれの観客の中で描かれるから、今見ているものが自分だけの映画となる。

ディズニーランドにあるのは何か。
教会の宗教画よろしくの無数の物語の型と、観客が自由に組み上げることをサポートする徹底的に合理化された機械である。

しかし、それを、そこを人はユートピアと呼びうるのではないか?


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