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かき集めて抱え上げる純粋さはあるか。

日々の生活の中から「通勤」という行動がなくなってから、通わなくなった道がある。特に意識することもなく歩いていた道だったはずなのに、今日久々に通ってみたら、なんだか感慨深いものがあった。

思えばあの道は、季節の移ろいを感じられる道である。
銀杏並木を抜けた先にある橋の下の道路には、桜の樹が植っているし、夏はセミの声が賑やかで、冬は葉を落としきった枝が高い空にヒビを刻んでいる。

今日の道は、イチョウの葉の絨毯が敷き詰められていた。
枝にも黄色の葉がまだたくさんなっており、足下も頭上も黄色を表現する細かい色の名を1つ1つ体現するかのように、決して同じではない黄色で埋め尽くされていた。もしかしたら、イチョウを満喫するのには一番良いタイミングだったのかもしれない。
まだ、微かに香る潰れきってはいない銀杏の香りが冬の訪れを感じさせる。

小学生の頃通った通学路にもイチョウ並木があった。
今くらいの時期になるとやはり通学路はイチョウの葉で埋め尽くされていた。地面を埋め尽くすイチョウの葉を拾っては、友達同士で投げ合ったり、空に向かってばら撒いて誰が一番空中でキャッチできるかと遊んだりした。
イチョウの葉をかき集め、イチョウのクッションを作ってダイブしたりもした。

今、同じようなことをやれと言われたら出来るだろうか?
地面に降り積もった葉の下に何かを隠していないだろうか?
葉を空に向かって舞い散らせたら、虫も一緒に舞ってこないだろうか?
土や、葉のかけらが見えない部分の髪の毛に絡みつかないだろうか?

なんて、ことを考えてしまう。
大人になるって、時に悲しい。
あの無邪気さが懐かしい。
だってさ、まっ良いかと割り切って、子供の頃のようにイチョウの葉と戯れたとしても、それはあの頃の無邪気さとは違うと思う。
リスクとか懸念とか、そういったことを考えた上でとった行動は、100%無邪気ではないと思う。

地面を埋め尽くすイチョウの葉の美しさを感じつつ、自分の心の澱に気づいてしまった。

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