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上司のために働き、上司のために死す

サラリーマンは、「上司のために働き」、「上司のために死ね」、そういう文化が昨今随分強くなったとうちの会社を見ていると思います。簡単に言うと、「責任を取らない上司」が非常に増えたと思います。

筆者が思うのは、元々リーマンショックといわれる金融危機の2008年前後で職場の上司の「」が随分変わったように思えます。

リーマンショック前は、比較的、腹が据わった、器の広い上司がたくさんいました。彼らの言葉は、「俺が責任を取る」という言葉を使い、部下を頑張らせていたと思います。いわゆる、「責任を取る上司」です。

最近は、「責任を取らない上司」が非常に増えたと思います。恐怖政治により頑張らせて、そして、自身の施策が失敗した後は、「俺のために責任をとれ」というのです。どれほど、「冷酷になれるか」と「責任を放棄でできるか」が組織人として生き抜く方法論になるかを、主張しているように思えます。

金融危機では、責任を自らとって、自害した上司がたくさんいたと思います。しかし、その勇敢で仕事ができた彼らが去った後、悪あがきした上司は生き延びて、会社に君臨する機会を得たと思います。

筆者の偏見ですが、
仕事ができる上司ほど、哲学があり、自分の倫理と理想を貫いたと思います。
仕事ができない上司ほど、次の職場を見つけられる自信がないため、あの手この手を使って手段を選ばず生き抜いたと思います。そして、最後に「責任を取らない上司」に変身したと思います。彼らは言うのです、「俺だから生き抜けた」と。

話を変えます。
社会で、そして、会社でずっと生き抜くためには武器が必要です。

武器は、資格、交渉力、調整力、、、いろいろありますが、それに、冷酷、無責任といった能力が加わったタイプです。

筆者は、仕事ができないタイプの上司がなぜ出世できるのか、非常に不思議であり、哲学や倫理を捨てた生き様で出世できる理由が理解ができません

少し思うことは、
上司のまた上司の役員が恐らくそういう発想を許容しており、さらに役員の上司の社長がそういった発想を許容していることが原因だと思います。

つまり、会社として人材をゴミのように扱い、最後まで自分が生き残る「サバイバル椅子取りゲーム」をみんなでしているようにも感じています。

違う見方をすると、もしかしたらですが役員はひどい様を見抜いているが、時期が来るまで処罰する機会を伺っているだけかもしれません。

しかし、働いている末端の人間から見れば、いずれにせよ、いる必要のない会社であることに変わりはないと思います。

人生は短いので「人生の時間は無駄にしてはいけない」そう筆者は思うのです。

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