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母親からの愛もなく生まれて来たけど、そんな事どうだって良いほど今が1番な私です✨✨


私には母親に関する記憶が2つあります。

それは仕事に行く母が
車の鍵がないと朝から大騒ぎをしていて
『あんたがどっかに隠したんでしょう』と
肩を揺さぶられている記憶。

私は知らない
そう言いたいのに怖くて固まったまま
何も言えなかった、と言う記憶。

それと父とは違う男の人と3人で
おもちゃ屋さんへ行って
『何でも買ってあげるから』と言われたけれど
この男の人は誰なんだろうと言う疑問と
子どもながらに
これは何かが違うんだという違和感で
結局何も選ぶことが出来ず
お風呂に入れると色が変わる魚のオモチャを
これ、欲しがっていたでしょうと
買ってもらった、という記憶。

この2つだけです。

物心付いた時には
気が付いたら我が家には母親の写真が1枚も無くて
あれだけ私のアルバムがあるのに
その中に1枚も母親が写っていないと言う
そんな日常が当たり前にありました。

他の家と違うと言うことを意識したのは
幼稚園の頃だと思います。
母の日の似顔絵が描けませんでした。
先生からは
『noriちゃんはおばあちゃんでも良いのよ』と
そう言われても
お母さんと
おばあちゃんは違うのです。

私はぼんやりとした 女性 を描いた事を
鮮明に覚えています。
誰でもない女性。

我が家はこうなんだと
そう思っていました。

そう思うしか術がありません。

しかし子どもは時に残酷でストレートです。
『何でnoriちゃんにはママが居ないの?』
そう聞かれても私は答える事が出来ません。

家の中では
お母さんとか
ママと言う言葉はタブーの様で
TVドラマなんかの台詞で『お母さん』なんぞ
聞こえて来ようものなら
1人ドキドキとして
良いものなのだろうかとハラハラして
その場から居なくなる私でした。

顔も名前も知らない母親の存在
若かった父に舞い込む再婚の話。

子どもだから何も知らないって訳じゃない。

大人の話は聞いて
大人が思う以上に理解しているものです。

記憶の母はいつも怒っていて
それで父とは違う男性と一緒にいる人。

いつしかその記憶に
私が何かしたのではないか
私が原因ではないか
そんな気持ちが追加されていきました。

そんな私の気持ちを決定的にしたのは
母が残した、私の母子手帳です。

定期検診の日付のハンコと
体重や腹回りの記録、
そして私の出生時の帝王切開での記録だけです。

後は何も記載されていません。

小学校の時、性教育の一環か何かで
母子手帳を持って来る、と言う日があり
みんなの手帳を見て
私は自分の手帳を今すぐこの世から消滅させたい
そんな気持ちになりました。

友達の手帳には、詳細に色々記入されていて
悪阻の事
名前を決めていた事や
候補の名前の数々
産まれてからの、月齢成長記録など
細かく記入されていました。

その日
白紙の母子手帳を持ち帰った私は
家にあった焼却炉に投げ入れました。

母は私がお腹にいた時から嬉しくなかったのだと
そんな証のものはこの世に存在してはならない
そう思って焼却炉に投げました。

本当は私が入りたかったのかもしれません。


祖母が脳梗塞で2回目に倒れ、
本格的に入院するとなった時、
私は中学生でした。

タクシーの中で意識朦朧となった祖母を
もしかしたら・・・と運転手の方が
救急車を呼んでくださって
大ごとにならずに済みました。
あのまま家に辿り着き、私や父が帰って来るまで
1人で家に居たなら
祖母はもっと早くに亡くなっていたかもしれません。

祖母の荷物を揃えながら、
毎日祖母が書き続けていた日記を鞄に入れた時
棚に並んでいた大学ノートの一冊が
パタンと床に落ちました。
拾い上げた私は、几帳面な祖母の文字を見て
しばらく動けなくなってしまいました。

年代は私が3歳の誕生日の前のものでした。

みつこさんは出て行ってしまった。
孫の事を思い、止めたのだけど気持ちは
変わらないようだった。
久しぶりに会う事が出来た。
みつこさんは戻る気持ちが無いとの事。
どうしようもないのか。

いけないと思いながら
私は何よりも
どんな本よりも祖母の日記を読んだ。

そして私は全てを知ったのです。

母は私を妊娠した後、
仕事場の上司といい関係になり
産むか産まないか、そんな事も
父と母との間で話し合われ
そして私はこの世に生を受けた。
そして産まれた私を
母として愛するより
母は女性として
新しい男性を愛し、一緒に生きる事を選んだ。

はっと気がついた時には
高かった太陽は傾き部屋に長い影を作っていて
私は身体中から汗が噴き出し
涙の一粒も流れてはいませんでした。

棚にノートを戻そうとした時
紙切れがノートの間から落ちました。

私はもう振り返らない

ただそれだけ
紙の切れ端に書かれていて
祖母の字とは違うものでした。

私はそれが母の字であり
母のものであると分かりました。

私は紙切れをノートに挟み直すと
棚へ戻し
私はいつもの日常に戻りました。

私は不思議と晴々とした気持ちでした。

長い間、暗いトンネルの中で
あっちにぶつかり
こっちにぶつかり
そうしていたのに、遠くに出口が見えた
そんな気持ちでさえいたのです。

長い間、私を苦しめていたのは
母がいない我が家は私のせいではないか、
と言う事だったので
それが違うと言う事実は
私を自由にしました。

また母子手帳の白紙も理解出来ました。

母は私を10ヶ月、身籠って育ててくれた。
そこに別の愛があっても
私はこの世に生まれてきた。

そしてあの男の人、
おもちゃ屋で私に何でも買ってあげると
そう言った人と
母は違う家庭を育んでいるはず。


不思議と私は母を憎む気にはなれませんでした。

以前も書いたのですが
顔も声も覚えていない人を憎もうと思っても
それは難しいものです。

それより何より、
私を産んでくれたことが有難いと思いました。
母は私をこの世から無かった事にする事も
出来たのですから。


私が母になる時、
祖母が私の母子手帳を手渡してくれました。

私が焼却炉に投げ入れたはずのものです。

祖母は『あんたの気持ちは分かる』と
言いました。
気が付いて拾って、大切に取っておいてくれた祖母でした。

私にとっての母は祖母だねと笑って言いました。

祖母は『会いたいか?』と聞きました。

私は『会わない』と即答しました。

きっともう違う家庭の人なのです。
私とは違う人たちに囲まれてきっと生きているはず。

私はもう振り返らない

そう書いた母である女性を思うとき、
私は母としてではなく
1人の女性として、この世に元気で
幸せで生きていて欲しいと思うのです。


私が父子家庭で育ったこと、
それは本当にかけがえのない幸せな日々の毎日で
私は可哀想な子でもありません。


私の気持ち
焼却炉に投げ入れた私の気持ちを
拾ってくれた祖母がいる。

手放す事も無く過ごしてくれた父がいる。

そして産んでくれた人がいる。

『親ガチャ』なる言葉があるそうですね。
子どもは親を選べない。
だから自分はハズレだとか何だとか。
でも
親も子どもを選べない。

何を持って
ハズレだの当たりだの言うのでしょう。

お金?
都会?
職業?
環境?
片親?

私的には『レアキャラ』って良くない?
そう思っています。

揃っている条件を使いこなせるのか
揃っていない条件で、どうやっていくのか
結局はそこが勝負な気がします。


幸せか
そうでないかは自分で決める。

そう教えてくれたのは
私を10ヶ月身籠って育て産み落としてくれた人
かもしれません。



第3回THE COOL NOTER賞のお知らせです。

10月のテーマは『始まる世界』です。


審査員を務められる『これでも母さん』
コンセプトなどは、↓を読んでいただくと
分かりやすいと思います。


父子家庭育ちで・・と言うと
『よくグレんかったねぇ』と
学生時代はよく言われていました。

生まれつき扁桃腺肥大で、よく熱を出していて
私が生まれたのをきっかけに
父も煙草を辞めていたし
正直グレる時間も暇もなかったのが本当です。

と同時に
『ほほぅ、私の家庭環境では子どもは荒れなければならないのだな』と思ったりもしていました。

イメージとは恐ろしいもの。
私はそんな間違ったイメージを払拭したいと
思っています。
まぁ大変な事も
ぶっちゃけたくさん泣いたけれど
それもあって、あったからこそ
今のNORIKOが出来上がってんだ( ´ ▽ ` )✨と
思っています。

タイトルにも書きましたが
本当にどうだっていい事なんです( ´ ▽ ` )

だってスタート出来たんだもん。


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