退職記念日――最後に花束を妻に
「○○さん、おつかれさまでした!」「おつかれさまでした!」
そう言われて何十年と勤め上げた会社を後にした。
今日は定年退職の日。
自分でいうのもはばかられるが、仕事一筋で勤め上げた。
懸命に働き、身を粉にした。
しかし、自分の生きがいでもあった。
が、その分、家族を犠牲にした――
ふと、自宅の最寄り駅の改札を出たところで、花屋が目に入った。
いつもそこにあったはず。そして、あることは知っていたが気にも留めなかったその店が今日は目についた。
会社の人たちから渡された花束を持っていたからかもしれない。
ごく自然にその花屋に足を向けていた。
「綺麗な花ですね」
店員にそう話しかけられた。
もしかしたら花束を持って花屋に来るには物珍しいかもしれないな、とふと思った。
店員の優しい声につられて、つい言葉を返していた。
「実は今日、定年退職の日で、これは同僚にもらったものなんですよ」
「あら、それはおつかれさまでした」
「自分でいうのもなんですが仕事のための人生でした。寂しくもありますが少なくともいまは達成感を感じています」
「それは素敵ですね」
気づかないうちに感傷的になっていたのか、初見の店員に身の上話を漏らしていた。
「今日の自分がいるのは妻のおかげです。最初は仕事のための結婚でした。昔は男は結婚して一人前、結婚していないと仕事にも支障が出るような時代でしたから」
結婚している人のほうが出世も早く、重要な仕事も任せられる。
男は会社、女は家庭。
現代の感覚ではわからないかもしれないが、あからさまにそうだった。
正直、家庭にも結婚にも興味がなかったが、仕事のために必要だった。
だから結婚した。
そして、家庭を顧みず、仕事をした。
なぜなら仕事のための結婚だから。
それが当然だった。
自分で思っていて、なかなかにひどい話だ。
が、
「私は会社で花束をいただいたのですが、もう一つ――妻にも花束を持って帰りたいと思います」
自然とそういう感情がわいていた。
今日まで頑張ってくれた妻にねぎらいの花束を持って帰りたい。
「とても喜ばれると思いますよ」
店員はそういって、花を見繕ってくれた。
「そうだといいのですが」
自分は照れながらそう返した。
そして、家についた。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま」
妻はそういっていつも通り出迎えてくれた。
今日の朝も同じように送り出してくれて、そして、いまもごく当たり前にふるまってくれた。
それがなにかうれしい。
「これは・・・?」
「今日までありがとう」
いつもと変わらない妻に、自分は花束を差し出した。
「一つは自分が会社でもらった分だが、これは君の分さ」
「え?」
「いままでありがとう。今日が最後だからさ――」
「・・・・・・・・・・・・・――ありがとう、ございました」
そういって妻は、彼女はお礼を言った。
そう。
この結婚は仕事のためのもの。
だからこの契約は、今日この時までのもの。
「いままで妻に就いてくれていてありがとう。おつかれさまでした」
最初からそういう契約だから。
そういう業務内容だ。
だから、
彼女の仕事はこれで、おしまいだ。
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