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幸田露伴の論語「悦楽① 序・悦」

悦楽

 序

 題して悦楽という、その初めの章に悦を説き、次の章に楽を説くことによる。二章の内容は、それぞれ学問を勧めるものである。二章に次いで不慍(ふおん)と無益の二章を記す。その内容も勧学であり、四章の文は言葉づかいに洗練さを欠くが、趣旨は親切で反復を厭わずに、人々を学問に志(こころざ)させようとする。聖訓(聖人の訓え)に拠り所を求め出所を注記する。これはは私の言葉に私心無く根拠が有ることを示して、人の疑うこと無く信ずることを願う為である。
大正四年夏日
露伴学人識


 悦

 人は誰でも志(こころざし)を立てるものである。地位低く、家貧しく、知恵も鈍く、気も弱く、真(まこと)に仕方のないような者でも、時には胸の底から湧き出して、このままではいけないと奮い立ち、志を立てることが有るものである。しかし、折角志を立てたのは良いが、ただ志を立てたというだけで、学ぶという事をしなければ、心の目指す方向が定まり、気の張りが十分に強くても、何の効果も上げられない。必ず学ぶという段階を経なくては、志を立てたのは感心だが、あるいはムダに苦しみ、あるいは倦み疲れ崩折れ屈し、あるいは脇道に逸れて入り込み、終には志をも取り失い、悲しい結果を見るものである。元気一杯で才能あふれた者などは、ともすれば自分一人で何事も出来ると思い、他人(ひと)の後を追わなくても、我自ら道を開くのに何の困難も無い、何で頭を下げて学ぶ必要が有るかと、我知らず昂った考えを抱くことが有る。それは元気の余りの事であれば咎めるほどの事では無いが、その人に取っては甚だ宜しくない。効果が無いだけでなく過ちの多い事である。子路は孔子の弟子で気が強く勇気に満ちた、正直一途の上出来の人であるが、初めて先生(孔子)に出会った時に、先生が子路の武骨だが美しい性分を見て取って、教え導こうと思い学問の道を勧められたが、子路は憚り気もなく、「学問に何の利益があるものか、南山の竹は手を加えなくてもそのままで真直ぐだ、斬ってこれを使えば犀の革をも通すと聞いている。何が学問だ。」と言いたい放題を申し述べた。子路の思いでは、学問などというものをしても、劣っている人は天性劣っている、賢い人は天性賢い、学問をしても何の益も無い、南山の竹の真直ぐで強いものは、そのまま斬って矢として使えば厚く強い革さえ通す、何で学問が必要なものか、と思うのだ。その時、お叱りも無く、「其方(そなた)は、そう思うかも知れないが、その素性の良い南山の竹に、矢筈(やはず)というものを取りつけ、矢羽(やばね)というものをつけ、刃味の良い鏃(やじり)というものをつけて、これを研ぎ澄まし、そして射放てば、矢の入ることも一層深いであろう、どうじゃ。」とお教えになれば、子路は恐れ入って、ナルホド学問をすれば、学問を必要としないほどの善い者もますます善くなる、悪くて役に立たない者も、少しは世の役に立つようになるだろうと悟り、それからは先生に従って学問に励むようになった。子路と同じような考えを持つ者は世に少なくない。気負って才能を誇る者、頭から学問を馬鹿にし、稽古(繰り返し習う)ということも、温故(昔のことを調べる)ということも、何の益が有るものかと思い侮り、俺は人の弟子になるより人の師となる、俺が俺流の教(おしえ)の先祖となる、と誇り驕ってジレッタク思い、モドカシク思う。この様な人の行く末は仕出かすこと少なく、何も出来ないで終る人が多い。その人の優れ恵まれた元気や才能をムダにするというもので、真(まこと)に惜しく残念なことである。
 さて、稀に学ぶことを欲しないこともあるが、人は誰しも学ぶことをするものである。自分から進んで学ぶ者もあり、親などに勧められて学ぶ者もあり、またその学ぶところも様々であるが、それぞれ学ぶには学ぶ方法がある。折角学んでも、繰り返し、繰り返し、学ぶということをしなければ、学ぶ楽しみを知ることが出来ずに、倦怠退屈の気持ちが生じ中途で学問を捨てることになる。学問をするに当たって最も大切で重要なことは、学問をする中に楽しく悦ばしい境地が有ることを知ることで、修学の中に言うに云えない悦楽が有ることを覚えれば、自然と学問に深く努力することになるが、学問というものを唯これ骨が折れて根気が尽きるだけのことと思うようでは、どれほど志を励まし、心に鞭打って、屈せず怠らず行っていても、我知らず弛みも隙も出るものである。であれば、学問の楽しさをどうやって覚えるかと云うと、別に変った道が有る訳ではない、ただ誠実に学んだ事を繰り返し繰り返し復習する時に、自然と感じられるところが有って、嬉しさ悦ばしさに人知れず笑みが催(もよう)されるのである。学ぶと云う事は、昔の聖人賢者の道を学ぶにしても、何の芸を学ぶにしても、自分の出来ない事を学ぶのである。たとえば舟を操ることを学ぶようなものである。この様に早緒(はやお)という物を船底に取り付け、この様にその早緒を櫓に掛け、この様に櫓臍(ろほぞ)を櫓杭に据えて、この様に櫓を牽(ひ)き、船を右に進める時はこの様に推すことを多くして、左に進める時はこの様に牽くことを多くすると教えられて、一ツ一ツこれを習得する、これが即ち学ぶところである。学んで後に櫓を執って漕いでみると簡単には漕げなくて、あるいは櫓臍が外れて力の入れるところが無く、あるいは推すことを多くしようとしても却って牽くことが多くなって舟はますます左進し、あるいは牽くことを多くしようとしても却って推すことが多くなって舟はますます右進し、心は焦り手は萎え、気は喘いで脚は竦(すく)み、思う様に我が手も命令(いうこと)を聞かなければ、櫓も従わない。しかしながら、日々時々、繰り返し、繰り返し、これを重ねる時には、少しずつ、少しずつ、思うようになり始めて、六・七メートルの間、十・二十メートル程は、危なげながらも漕げるようになる。その時の悦びは人はどうか知らないが、我に取っては寒い部屋の中に温かい日の光が差し込んで来たようで、言うに云えない深い味わいを感じる。尚も重ねて櫓を扱うことを習えば、終には櫓で舟を操るくらいのことは簡単に出来るようになる。自転車に乗れるようになるのも、泳げるようになるのも、その出来るようになった時の悦びは同じである。志を立てたならば止めてはいけない。志を立てたならば学ぶが善い。学ぶ時は繰り返し繰り返して、嫌気を起こさずにこれを習熟するが善い。習熟すれば悦びはその中にある。
 孔先生言う。「学んで時に之を習(おしえ)ねる、また説(よろこ)ばしからず乎」『論語(学而一)』と。ここでの学ぶと云う言葉の本意は、雑芸小技などを学ぶことを指したものでは無い。言うまでも無く古聖先王(儒教の聖人:堯帝・舜帝・禹王・湯王・文王・武王)の道、即ち日常生活の在り方から、国を治め世の中を平安にするまでの純正公正な道を言う。「習」は「ならう」とも読むが、「かさねる」と読む方がここではその意味が明らかになる。「士は朝に仕事を受け、昼に研修し、夕に習復す」『国語(魯語下)』と見えるのも、「博く学んで習(かさ)ねないことを患える」『劉向説苑』とあるのも、「習坎(しゅうかん)は重険(ちょうけん)なり」『易経(坎為水卦・彖伝)』というのも、習は皆重ねるという意味である。鳥の雛がハタハタ、ハタハタと幾度も飛び習うことを習という。習の字に「ならう」という意味と「重ねる」という意味がある理由(わけ)である。その字は羽に従い自に従う。羽の下の白は白ではなく自の省字である。しばしば飛ぶことを習と云う。学習の二字が鳥のことに用いられた例は『礼記』に見えて、季夏之月の条文に、「鷹即ち学習する」とあり、また人のことに学習の二字が用いられた例は、孟春の条文に、「この月や楽正(音楽を司る役人の長)に命じ、入って舞を学習させる」と見える。鷹が羽搏くのも人が舞うのも、皆度々行うことによって次第に出来るようになるのである。習の字の味わいを知るべきである。時にと云うのは時々で、日にと云うのが日々にと云うようなことである。先生の時代の「学」は今の世の「学」とは異なっているけれども、先生の言葉はその当てはまるところ重なるところが広く、今の世のいわゆる学芸の学に当てても良く通じて邪魔するところがない。学問に携わる者は少なくともこの言葉を体験し実感しなければならない。
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 「学は覚ということなり、未だ知らないところを覚悟するなり」『自虎通徳論』。この事はこの様にすれば良いと覚(さと)ることも学である、この道理の本(もと)はこうであると知ることも学である、この物はこのようだと識って、この礼はこのようだと弁(わきま)えて、この芸はこのようにして修められる、この道はこのようにして到達できると覚ることも学である。学は覚(かく)なりという意味に依って言う時は、今まで自分では明らかに出来なかったことが、他の人の教えで明らかになり合点すること、これが即ち学である。また学には効(ならう)の意味があって、和訓では学を「まなぶ」という、「まなぶ」は「まねぶ」の転語で倣い真似ることで、また「学ぶ」は「真似履む」ことで、昔の人の高い徳(善いところ)を真似て倣い履むことであると谷川士清は説いている。和訓の意味に拠る時は、学問は先人の言行に倣って我もそう有りたいと願い求めて、そう成れるように振舞うのが即ちこれである。漢訳和訓何れにしても通じることであるが、しかしながら学問だけでは悦ばしいところには至れない。この事は正にこのようにすると良いと我が心の中ではハッキリとしていても、実際にはその事をその様には出来ないのが普通である。また前賢古聖の行為に倣ってこれを真似履んでも、さて一日も真似られないのが普通である。しかし、時習(時に習う)の工夫を怠らず、飛べても飛べなくても、ハタハタと羽ばたきを止めない幼鳥の様に、能くならなくても能くならなくても、これを能くしようとする時は、幼鳥は何時しか一メートル飛び、二メートル飛び、三メートルと飛べるようになって、終には梢を移り渡り、雲にも飛び入ることが、少しずつ、少しずつ、出来る様になって行く、その光景の悦ばしさは何とも言えない。これを「また説ばしからず乎(時習の悦び)」と云うのである。「説(えつ)は深くして楽は浅き也」と譙周は言い、また訓詁家の「内に在るを説と言い、外に在るを楽と言う」と云っているのを思えば、「また説ばしからず乎」の説は、我が胸の奥底の花の木に春の日が柔らかく射し、心の田の開けた辺りの稲の苗に恵みの雨がしずかに注ぐような、平和で長閑(のどか)な好光景の悦びであることが分かる。また「また説ばしからず乎」というのは、学ぶ悦びにはいろいろ有って一ツではなく、その多くの悦びの中で、時に之を習う中に、氷が融けるように疑問が溶けて、気持ち良く理解できる悦びも、これもまた一ツの悦びなので、「また説ばしからず乎」というのである。学び始めは知らない事を知ることも悦ばしく、聞いたこともない事を聞くことも悦ばしく、また学問が次第に進んで、我が世に立ち徳を高める道が目前に開けて行くのを見ることも、悦ばしい限りである。学びの始めから終わりまで、学ぶ者の多くが経験する悦びは、繰り返し繰り返し習う中に理解が進み、フツフツと次第に湧いてくる悦びである。人の器によって大小深浅はあるが、この悦びを実感できない者は、学んでいると云えども、実際は未だ学んでいない様なものである。
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 ある人は問う。学んで時に之を習(かさ)ねる時に覚える悦ばしさと、仏教徒のいわゆる法喜禅悦というものと同じか否かと、またキリスト教徒のいわゆる精霊が降るということ、或いは救われる悦びということと同じか否かと。答えて言う、その光景は似ているところも有るが、しかし、先生の教(おしえ)は仏教やキリスト教の教と同じではない。仏教は父子・夫婦・君臣の道を説いていない。キリスト教は神を尊んで人を卑しんでいる。仏教は人が人界を超越することを願い、キリスト教は人が天国に至ることを目指している。先生の教は、この様に人界を抜け出たり空に昇る様な事では無く、唯これ人間性を磨いて優れたものにするのである。意味明らかで全て平正で奇特も無く霊異も無い。それなので、学んで時に之を習ねる時に覚える悦ばしさも実際の事で、漠然としたものでは無い。「人まさに物事の上に就いて工夫を致すが善い、即ち進境があるであろう」『王陽明語』と前人が教えたのも、「我が聖人の道は捉えどころの無いようなものでは無く、一ツ一ツ実際に其処に在るものなので、道を遠くに在るように思わないで、只今現在、我が手が触れ我が身に関係する物事が、道に適(かな)っているかいないかと考えて見るが善い。そのようにすれば次第に学問は進境する」と説くのである。王陽明(中国、明の儒学者)の学風は仏教の禅の教(おしえ)に似たところがあって、「儒教を遠ざかり仏教に近づくこと、程子(ていし・中国、宋の儒学者)や朱子(しゅし・中国、宋の儒学者、朱子学の創始者)を超える」と言われたほどの人だが、この人にしてこの様な言葉がある。聖人の教は篤実を旨として実地を離れない。それなので王陽明と云えども、その言葉は自然とこの様になる。例えば、食事が終わるまでの極く短い時間でも仁(じん)に外れることはない『論語(理仁五)』。仁に外れることは宜しくない、何で仁に外れるものか、今までは考えも無く過ごして来たが、思えば我知らず仁に外れることも多かった、これからは是非とも仁に外れることの無いようにしよう、と思い始めるところは、存心(心を正しく保つ)の道を学んだところである。この様に学んで仁に外れないように願っても、心の癖や気の習いによって数日の中には幾度となく踏み外し、思わず知らず仁に外れて、我が身ながら我が命令を聴かず、統制のとれないことまるで馬術の心得無しに馬に乗って、馬を制御できないようなもので、仁に外れない境地に居ることは難しいのである。しかしながら仁に違わないように、仁に外れないようにと心掛けて習熟して行くうちに、何時しか踏み外すことも少なくなり、昔であれば仁に外れるような場合にも、幸いに踏み堪えて仁に外れることも無く、自ら省みて悦ばしさを覚えるようなもので、道に進むことも徳を高めることも実地の事である。法喜禅悦はそうでは無くて、一室の中で無念無想の座禅観法に耽る中にも生じる。また精霊が降ると云い、救われると云うのも、室の中あるいは戸外で、神を念じ祈りを捧げる時に生じることが多い。二家の教(おしえ)と儒教との違いを見るべきである。先生の教は、心性を説き示すことも少なくないが、捉えどころの無いような漠然としたことでは無く、ただただ正心誠意(個人の在り方)から治国平天下(国の運営)に及ぶ。その中心となるものは、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の関係『書経』で、全てこれ人間の事、全てこれ実地の事、全てこれ日々の事、全てこれ平易明白の事、日常茶飯の事である。二家の教(おしえ)のように高尚遠大な悟りを求める事も無く、厳かな神異を極めるような事も無い。そのため先生の教を二家の教に比べると、先生の教は低く二家の教えは高い。しかし二家の教を受ける者で能く学ばない者は、ともすれば空疎に堕ちて夢を追い、想いを回らせるような事を善しとして、実際において何も得るところ無く終わる。その役にも立たない有様は、智永(中国の陳・隋時代の書家)が永い年月の間、書道を学んで終にものに出来なかったことを、米元章(中国の北宋末の文学者・書家・画家)が嘲って、「憐れむべし智永、空臼を研す」『寄薛氏詩』と言ったように、物が入っていない臼をいじりまわして日を送るのに酷く似ている。仏家の教を「その高きこと『大学』に過ぎて実(じつ)無し」と朱子が評したのも、実無しの二字に無限の力がある。ただし仏家の教(おしえ)と云えども全く実が無い訳ではないが、孔先生の教が全てこれ実地であるのに比べ、仏家の教は真(まこと)に実が無い、キリスト教も高いこと『大学』に過ぎる。『大学』の道はただこれ三綱領八条目に止まる。「創造論、原罪論、権現論、贖罪論、復活論」『新約聖書』のような幾多の駭心驚魄(ビックリ)することが有る事も無く、先生の教(おしえ)に対するキリストの教は、先生の教に対する仏教と同様、高過ぎて実が無い。聖賢の道はそうではない。耕しても、漁をしても、陶器をつくっても、什器をつくっても、商いをしても、皆能く出来て過たないのは、これ聖帝舜の境地である『史記(五帝本紀)』。呉か宋か明らかではないが或る国の太宰(国王の輔佐)が、先生の何事をするにも能く出来るのに驚き感じて、「先生は聖人ですか、何でそんなに多能なのですか」『論語(子罕六)』、と言ったような事は、これは先生の境地である。多能は聖人の聖人である根拠ではない。且つ多能は人を率いる根拠にもならない。先生は何でも屋ではない。先生自身いささか嘆息されて「私は若い頃用いられなかったので、まとまった仕事が無く、いろいろな事をやった。そのため多芸である。」『論語(子罕七)』と言われたのを弟子の子貢が聞いただけの事で、これを訳して、「聖人は何事も会得している、ただ聖人が用いられないのは、人が他の人々の小々の技芸に価値を置くためである。もし聖人が用いられれば、即ち大功業が成し出されるので、他の人々の小々の技量に価値を置くことはない」『朱子語録』と云うのも、真にそうである。多能・多芸ということで先生を評価してはいけない。しかし先生は何をしても能く出来て、太宰の目にはその多能が驚くほどだったのであろう。また「舜帝は年齢三十にして徴庸された」『国語』ので、耕・稼・陶・漁等の事を、暦山・雷沢・河浜・寿邱等で自身がされたのは、それ以前の若い時だと思うが、暦山で耕せば暦山の人々が畔(くろ)をゆずり、雷沢で漁すれば雷沢の人々が居をゆずり、陶器をつくれば器(うつわ)は皆疵や歪みがなかったと伝わっている。思うに我が聖賢伝来の道は「正心誠意」『大学』と云うのも、「忠恕」『論語(里仁十五)』と云うのも、名付け様によって様々であるが、つまりは人間本来の素直で美しいところを以って、素直に美しく物事に応じて行くまでで、仏教のように人を超え、キリスト教のように人を卑いとするものではない。物事に対処する時々刻々が道であるとするのが我が孔先生の道である。
 どんな時でも処でも、少しの間でも、人は本当のところを離れてはいけない。耕す時も、漁する時も、陶器をつくる時も、勤めている時も、それだけでなく、家で飲食する時も、外で行動する時も、一挙手、一投足、瞬(まばた)きや仏者の弾指のような極めて短い時間の間にも、この様にすることが本当であるというものがある。その本当のところ之が道である。その本当のところを確りと詳しく理解することが学である。またその本当のところを身に着けて、もしくはその本当のところに身を置いて、叶わなくとも本当のところから離れないで努力実行することが時習である。例えば耕す時は、深く鋤(す)き、細かに砕き、畦(うね)を正しくし、土を平らにして、作業は親切を極め、朝から暮れまで働き、終われば鋤(すき)鍬(くわ)を丁寧に洗って片付ける。即ちこれが耕す者の本当のところである。この本当のところを知らないことを俗に農業無学というが、農業無学では農作業は出来ない。老農の指導、自己の観察、これらを積み重ねて、耕作は正にこのようにすると良い、と理解できるようになる。即ちこれが学である。即ち耕作の本当のところを能く理解したのである。そしてこの学に拠って自ら農業の本道を実践しようと鋤鍬を執っても、簡単には事が運ばず、日々風に吹かれ日に曝され、苦労すること月重なり年積もった後に、次第に土も思うようになり、苗も枯れず腐らず、水分も不燥不湿の程良い状態になる。これが即ち「時習の悦び」である。これは一ツの例えに過ぎないが、聖賢伝来の教(おしえ)は稼業の道などで述べ尽くすことが出来ないのは勿論であるが、例えて言えば、何時いかなる処にも道が無いということはない。正心も誠意も忠も恕も、唯これ実地の事で、日常を離れた特殊な事では無い。耕す時は耕す上においてその本当のところを行い、漁の時は漁の上においてその本当のところを行い、陶器をつくる時も、勤める時も、その時のその事の上に本当で間違いのないところを行い、富者は富者で、貧者は貧者で、社会で活躍するにしても、引退して生活するにしても、常にその本当のところを行う。即ちこれが「道」である。この道の意義を理解し、自分のものにするのが即ちこれ学問で、この学問を無駄にしないで努めるもの、即ち学んでそして時習するもの、一から十まで実地でないものは無い。先生の道はこの様なものである。英霊の資質を持つ者は、耕・漁・工・商皆能く出来て多能多芸であって、太宰を感心させた舜帝や孔先生の様なことは不思議でも何でもない。伊尹(いいん。中国、殷の宰相)が煮炊きの小技を能くしたなどと云う話『呂氏春秋』が伝わるのも、信ずるに足りない伝説だが、自然とそうである様なことである。それなので言う、「私は完全であろうか、我が身を反省して正す、楽しみはこれより大なものは無い、これ吾の本心なり、いわゆる人として踏み行うべき道とはこれなり、いわゆる仁の道、正しい在り方、正しい道とはこれなり、古人はこれにより実(じつ)を得る、道理で言えば則ちこれ実理、物事で言えば則ちこれ実事、徳は則ちこれ実徳、行(おこない)は則ち実行」『曽宅之に与える書』と陸象山(中国・南宋の儒学者)の言うのも、真に言い得て過ちなく、聖賢の道は実の一字を離れない。仏教・キリスト教の道はこれと異なり、寂滅を説き、現実を超越し、諸行は無常とし、これ生滅の定めなりとして人々を現実から脱し空に就かせようとするもの、これが仏教である。実相を語り中道を説くと云えども、その教(おしえ)は世を捨て、愛を断ち、夫婦の道を破り、君臣の義を排除する。正にこれ陸象山のいわゆる「儒教は正しく、仏教は偏っている」『王順伯に与える書』である。先生の道の中正篤実な事に比べることも出来ない。程子が「仏教は、管の中から天を窺うようなもので、ただ上を見るだけで現実を見ていない」と言ったのも、仏教の大体を言い得て甚だ優れている。また言う、「釈迦は惟これ生死を理解する。その他は全て理解しない」と、これもまた、仏教の綱領を説き破るものである。仏教には大乗・小乗があって一概に論ずることは難しいが、要するに生死の迷いを離れて解脱(げだつ・悟り)の境地に達することを目的とするだけで、その道は結局のところ、死の為にあって生の為のものでは無い。後世の破戒僧等は、世に諂(へつら)い人に阿(おもね)り真(まこと)を偽り辞(ことば)を飾って、仏法もまた実際生活の益を行うと説くが、仏法の本来の趣旨は、「先生の道は日常生活から離れない」と楊亀山(中国・北宋末の学者)がいう先生の道とは違い、ただ無暗に生死の迷いを離れて、解脱の境地に達する深遠な真理を指し示すことにある事は争えない。高過ぎて実が無い。キリスト教もまた仏教と同じで、雄弁に言葉を尽くして人を啓蒙すること多いが、しかしまた実が無い。その教えは、神に仕える道を示し、父母に仕え、君長に仕え、夫に仕え、師に仕える等の道を説かない、「思うに神は全ての本(もと)なり、善く神に仕える道を尽くせば即ち可なり」と、忽ち人間の紛云(ゴタゴタ)を脱して、直ちに神の審判に委せる。堅持する心は真(まこと)に高いが、実践の糸口は無いに等しい。世に栄える人が栄誉を不要物のように捨て去るのは甚だ善いが、神に仕えること以外の事は価値が無いとして、ひたすら我の神に在り神の我に在ることを願い、思うところただ無暗に天に在って、考えるところが実地で無いことは争えない。それなので劣る者は弥陀(みだ)を奉ずる者のように、優れた者は弥陀を仰ぐ者のように、一神と凡神と相異なると云えども、キリスト教徒と仏教徒の道の、高過ぎて実が疎(おろそ)かな事は相似ている。仏教は空(くう)を教え、キリスト教は霊を説く、仏教は菩提(ぼだい・悟りの境地)を教え、キリスト教は天国を説く、先生の道にはこのような高尚遠大な幽玄なところの無い代わりに、ただこれ平正、ただこれ明白、学問も実地、知も実地、時に之を習うのも実地、時に習う悦びも実地、工夫も実地、修練も実地、証得も実地、進境も実地、少しも漠然としたところが無い。先生の道にも仏教の禅那(ぜんな・心を静め動揺しない状態)に似たものが無い事も無い。「食を変じ座を遷す斉(ものいみ)の時」『論語(郷党七)』のように、仏徒の入禅と斉とは同じものでない事は勿論だが、「散斉七日・至斉三日・沐浴して体を清くして心を明るくし、食を変じて気を潔くし、座を遷して身心を易(か)え、雑事から遠ざかり一念を正す」。似ていると言えば似たところも有る。また聖賢の道にも、西洋の神に仕える様なものが無くは無い。『易経』・『周頌』・『大雅』・『湯誥』・『商頌』・『微子之命』・『舜典』・『春官大宗伯』・『孝経』・『礼記』・『湯誓』等に見える帝または上帝と云う言葉が指し示すところは、思うに「宇宙の主宰者を指すもの」『易経』でなくてはならない。中国の社会には、祭祀するものに、天神あり、地神あり、人鬼あって、一神教の純粋とは異なってはいるが、「本に報い始めに返る」『礼記』思想は天と人とを混淆しながらも明らかに存在し、「文王を明堂に祀(まつ)って、もって上帝に配す」『孝経』。などということも有れば、禋祀燔柴の様な、「禋祀(いんし・浄め祭る)をもって儒教における昊天上帝(こうてんじょうてい・宇宙の最高神)を祀る」『周礼』というのもある。「燔柴(はんさい・柴の上に玉帛や生贄などをのせて焼く儀式)をもって天を祭る」『爾雅』というものもあり、およそこれ等の事は、各国各教えに似ているものが有る。特に先生の拠るところの周の教(おしえ)は、周の前代の殷の時に敬神の教が甚だ盛んであったので、周の時の人も自然と神を思うことが少なくなかった。しかし先生は、斉を重んじ神を敬っておられたが、先生の道は仏教やキリスト教とは遥かに異なる。キリスト教もまた仏教のように管中より天を窺うようなもので、ただ上だけを見て実地を見ていない。我が先生の道を学ぶのは山に上るようなもので、上り努めて止めなければ、一歩は一歩と低所より高所に至り、次第に凡境より佳境に入る。足元を見つめ一歩一歩と全てこれ実地を踏んで、次第に水の濁っていない渓頭を過ぎ、次第に花に塵無き岩頭に至り、次第に雲気ただよう日月晴明の霊域に入る。その道を尋ね歩みを進める間に何の変わったことも無く、一歩は一歩より高く、寸進尺登の結果を重ねて徳を積むだけである。山は土石を積んで出来ている。道は歩みを重ねて到達する。少しも空疎なところは無い。すべて全く実地のことである。二氏の学問と我が先生の学問との異なる根本を考えて、二氏の徒の法喜禅悦、または救われた悦びなどということと、「時習の悦び」との差を知り、我が先生門下の学問が実地を離れず、中正明白切実で人に近く、空疎無実の弊害が無く、著しい真益のある事を悦ぶべきである。
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 時習の説、古注は少し異なる。言う、学問に三ツの時あり、一ツは身中の時、二ツは年中の時、三ツは日中の時である。身中の時とは、「十才で師に就いて読み書きと計算を学び、十三才で音楽を学び、『詩経』を暗誦し、勺の曲を舞い、十五才で成童となり、象の曲を舞う」『礼記』。この様なものがこれである。年中の時とは、「春秋は教えるのに礼楽をもってし、冬夏は教えるのに詩書をもってし」、春は『詩経』を誦唱し、夏は音楽を奏で、秋は礼儀作法を学び、冬に書を読む様なことである。日中の時とは、「君子の学問を習って(修焉)、習ったものを蓄えて(蔵焉)、蓄えたものを整理・統合して身につける(息焉)、身に着けたものを自在に使用する(遊焉)」『礼記』。このようなことがこれである。学ぶ者はこの時において、学ぶところの書物の文と礼学の容儀を誦習し、日にその知らないところを知り、月にその優れたところを忘れない。これが悦びの源である。時習の説をこのように理解しても通じないことはないが、妙味に乏しく浅く味わいが無い。新注の方が優っているように感じる。なので古注をとらない。
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 学而の章の学の一字を、読んで覚えるという意味に理解する者があるがそうではない。読んで覚えるだけでは学問では無い、そうであるなら学問もやさしいものである。程子の高弟趙顔子の子の趙仲修が宣和辛丑の年に、李彦平の落選を慰めて云う。「貴公は既に論語を知っている。では言って呉れ給え、学びて時に之を習うとあるが何を以って学というのか。いわゆる学というのは、読んで覚えることでは無い。飾った語句や文章でもない。聖人を学ぶことが根本である。聖人を学ぶには、常時でなくてはいけない。絶え間なく続けることが大切である。日常生活の時も学である。外出遊覧の時も学である。疾病死去の時も学である。これを当然のことと認識し、瞬時においても学び、多忙な時にも学ぶ。立てば則ちその前に居られるのを見、乗り物に在る時は則ちその中に居られるのを見る。その様にして聖人を学ぶべきである」『焦氏筆乗』と。この言葉甚だ可である。聖人とは心のままに物事を行って間違いのない者、聖人を学ぶとは心のままに物事を行って間違いのないようにすること、学の字を解釈するとこの様になる。即ちこれ解釈として優れ、解得して実利有るというべきである。
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 学而の章の第一節は、その景象から言えば、悦の一字が棟であり、一節全体を覆い尽くしている。その事相から言えば、習の一字は柱であり、一節全体を支えている。習熟することこれがこの一節の要点であり重要なことである。悦び楽しむことこれがこの一節の精神であり肝心なことである。道から言えば、悦は現象の主体で自然に生まれる感情である。学ぶ者から言えば、習はこれ物事の要(かなめ)であり努めて為すべき行為である。学問が成るか成らないかは習と不習とに係っている。それなので、未だ聖賢の域に達しない者は、全生命を挙げて習の一字に没頭することを惜しんではならない。であれば、先生の門下に在って才器は必ずしも人に勝ってはいないが、儒教の系統を正しく継いだことで後人に尊崇されている曽子のような人も、「吾、日に吾が身を三省する。人の為に謀って忠ならざるか、朋友と交わって信あらざるか、伝えて習わざるか」『論語(学而四)』と、日々徳の精進に実工夫を洩らされている。曽子の三省の一条に、「伝えて習わざるか」とあるのは、先生が「学びて時に之を習う、また説ばしからず乎」と言われたのと表裏をなしている。彼と此とを参照して先生門下の学問の方法を窺い知るが善い。伝えるとは継承するということである。習うとは出来ない事を出来るようにすることである。曽子は自らを治めること誠実適切な人で、継承したことを習わないようなことは無いけれども、それにもかかわらず、日々反省して、万一にも習わないようなこと事が有りや否やと、間違いの無いように学問をしたのである。曽子の心では、既に学び受けていることを習わないようなことが有れば、その身に学び受けたものを無駄にするだけでなく、その習わないという事が、直ちにこれ一大悪事・一大不徳事・自分を欺くこと・自分を律しないこと・浅ましくも愚かな事であると、日々に深く省察を加えていたのである。曽子がこのように心掛けて学問をした事に照らしても、どんなに習うという事が大切であるかを覚(さと)るべきである。先生が示された愉悦の光景、曽子が提示した内省の工夫、学問をする者は必ずこれを実践して、そして近きより遠きに至り、低きより高きに上るべきである。
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 陸象山言う、「論語には、分かり難い話が多くある、学んでそして時に之を習うというが、時に習うものが何事なのかが分かり難い。何事を学ぶのかが分からなければ読みにくい。何事かが分かれば之が分かる。時に之を習うのはこの何事かを習うのである」『象山語録』、と象山は指摘をしているが、「時に之を習う」こと自体を否定してはいない。学んで時に之を習うというもの、何でこれが分かり難い話であろう、朱子かつて書を作って学ぶ者に与えて云う、「陸象山の門に遊ぶ者は実践の士多し」と、これは象山の学問が実(じつ)を尊ぶからである。また象山かつて自ら説く、「虚が幾ら有っても一ツの実も生まれない、吾が平生の学問は他(ほか)無し、ただ是(これ)一実」と、またその日常の言葉に云う、「道の外に物事は無く、物事の外に道は無し」と、象山の学風はこの様である。即ち知る、象山の門に在っては、学ぶものこれ即ち実地、習うものこれ即ち実地、道は物事を離れず、物事は道を離れず、一から十まで学問であり、朝から暮れまで学習である。学而時習(学びて時に之を習う)の一語は、分かり難い無い話のようで実際は何処にも分かり難い話などは無い、実際の物事を学ぶのである。象山が「我の心が学の本(もと)であるとすれば、六経(りくけい・儒学で重んずる中国の易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経の六書)は皆我心を説明するものである」と云ったことは、豪語のようで豪語ではない。却って切実真誠の言葉である。アア、世の多くの知識人、道は道であって物事では無い、物事は物事であって道では無いとして、学問は書斎の辺りにあって、道は日常生活のところには無いとし、「六経は皆我が心の説明である」と云うのを聞いて、憚り気も無く笑って、陸象山の言葉は人を欺くというが、そもそもそれは誤りである。私は象山氏の学問を信奉してはいないが、百千年前の聖賢の教訓を取り来たって、これを骨董としないで、直ちに我が目前の事実として、我が心学の教訓とする象山氏の学問は、恵(めぐみ)を将来に贈ること甚だ多いと思わずにはいられない。ましてこのような言葉で人を教える者は、象山氏に限らず漢唐(中国、漢・唐の時代)の訓詁家と明清(中国、明・清の時代)の考察家を除いては、周敦頤・程子・朱子・王陽明等皆説は異なるが、同様な意(おもい)で言葉を立て訓えを垂れて、後生の人が古聖の道を実践体得することを願ったのである。(悦楽②につづく)


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