高松仙人

若い人に読んで頂きたくて「人生は味わい深い」を書きました。是非読んで見てください。また…

高松仙人

若い人に読んで頂きたくて「人生は味わい深い」を書きました。是非読んで見てください。また幸田露伴先生の作品もなかなか良いです。逐次投稿していきますので、これも是非読んで見てください。

最近の記事

幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅③」

 安乾が何物であるかを考えられる物は無い。ただ晋の武帝の娘である滎陽公主の婿に選ばれて、未だ結納の式も成さないうちに公主が亡くなり、しかも国の争乱に遭遇して不幸な生涯を送ったと云うから、束晳よりやや後の人だろうと思われる盧諶(ろしん)が撰した「祭法」があり、その中に云う、「四時の祀、皆安乾特を用いる(四季の祀には、皆安乾特を用いる)。」と。それによって考えると安乾は安乾特の略であろう、賦の辞法により特の字を省いたのであろう。安乾特は思うに支那国外から移って来た語であろう、

    • 幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅②」

       餅を語る文に、古(いにしえ)に束晳(そくせき)の「餅賦」一篇がある。束晳, 字(あざな)は廣微(こうび)、晋の武帝(西暦二百七八十年)の時の人である。漢の踈廣の子孫であって、踈の字の足を取った束を姓とする。学問を好むことで博士の曹志の称えるところとなり、また古(いにしえ)に通じることで司空の張華の推薦するところとなる。太康二年に汲郡で竹書が数十車発見されると、晳は著作に携わっていることにより竹書を見ることを得て、難解な竹書を解読したと伝わる(「晋書・束晳伝」)。これによって

      • 幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅①」

        餅  我が国で「もち」というのは、糯(もちごめ)を蒸して、これに杵と臼の働きを加えて塊(かたまり)のような形にしたものを云う。「もち」の語は黐(とりもち)と関係し、粘ることでその名を得ているのであって、支那(中国)の餅(へい)とは大いに異なる。餅(へい)は麪(めん)すなわち麦末(ばくまつ・麦粉)を捏(こ)ねて作られた物である。「急就篇」に餅餌(へいじ)麦飯(ばくはん)甘豆羹(かんとうこう)の句がある。顔師古(がんしこ)が注記して云う、「麪(めん)を溲(こ)ねて而(しこう)し

        • 幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話  謔解・から・あべ川餅」

          謔解・から・あべ川餅  「千早ふる神代も聞かず龍田川からくれないに水くくるとは」という在原業平の和歌は、藤原定家の「百人一首」に選ばれて以来、家々に伝来し、口ずさまれ、一般もまた之を知る。しかし言葉は昔と今では隔たりがあって、言葉を聞いても理解できない者がいて、そこで物知りと云う人にその意味を訊く。訊かれた者が教えて云う、「千早ふるという千早は、吉原の花魁(おいらん)の名だ。ふるとは振りつけることだ、冷たくあしらって追い払うことだ。神代もきかずの神代も、これまた花魁の名で、

        幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅③」

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈③」

           潯陽江上の遊女の琵琶と宮中楽人の箜篌では器物はすでに異なる。楽天の琵琶行と李賀の箜篌引では音調は別物である。これを比較して優劣を論じるようなことは私の望むところではない。ただ私は李賀の詞を愛するだけである。  李賀の詩には佳句が多く、前人が称揚するものもこれまた甚だ多い。その中で「許彦周詩話」は云う、 楊花 帳(とばり)を撲(う)って 春雲熱す と。才力は甚だ遠く人を超える。 柳塘(りゅうとう) 春水 漫く 花塢(かう) 夕陽 遅し の厳維の詩は欧陽脩の賞するところ

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈③」

          政治の自由を主張なさる。 自由は責任の裏付けあっての言葉です。 責任のあり方の議論があるべきなのに、 政治の勝手と一蹴なさる。 国葬の時は、 変だぜコイツと思ったが、 今は、 駄目だナ、コイツと思っている。

          政治の自由を主張なさる。 自由は責任の裏付けあっての言葉です。 責任のあり方の議論があるべきなのに、 政治の勝手と一蹴なさる。 国葬の時は、 変だぜコイツと思ったが、 今は、 駄目だナ、コイツと思っている。

          岸田おろしを マスコミがハッケヨイしている。 鼻クソと目クソの争いを 鳥羽僧正はどう画く。

          岸田おろしを マスコミがハッケヨイしている。 鼻クソと目クソの争いを 鳥羽僧正はどう画く。

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈②」

           李賀の詩集を読むと開巻一番、「李憑箜篌引(李憑箜篌の韻)」がある。李憑は当時の巧みに箜篌(こうこう)を弾いた者である。箜篌は今のハープと云うものの類である。昔、劉熙は「師延が作る軟弱で退廃的な音楽の楽器は、思うに空国の侯が作った楽器であると云い、漢の武帝は楽人の侯調に作らせたと云い、また或いは侯輝が作ったもので、その声(音)は坎々(かんかん)として節(ふし)に応じるので坎侯と云ったが、後に訛って箜篌と成ったとも云い、甚だ諸説おびただしいが、唐の大儒の杜佑は、「竪箜篌は胡の楽

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈②」

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈①」

           音でもって情をのべ感を伝える、之を音楽と云い、言葉でもって状をあらわし懐を述べる、之を詩と云う。その表現の形態は全く異なるが、その内包するものは殆んど同じで通じ合うものがあるのである。それなので昔から詩歌には音楽についていうものが多い。推測するところ大昔に於いて詩は即ち楽詞であり、音楽はむろん詩旨であったのであろう。詩に音楽をいうものが多いのも不思議なことではない。ただ我が国の奈良朝以前について云えば、大和の歌は幸に存続しているが、大和の音楽はすでに詳しく調べることは難しい

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈①」

          一年先のことを云うと鬼が笑う。 三年先のことを云っては, 心配で鬼もどう笑っていいか分からない。

          一年先のことを云うと鬼が笑う。 三年先のことを云っては, 心配で鬼もどう笑っていいか分からない。

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 白磁・音楽」

           唐の人で青瓷を論じた者に陸羽がいる。羽は秘色と云わなかったが、羽もまた越州の青磁を上と見て、邢州の白磁を下と見る。しかしながら、邢州の白磁もまた世に重んじられたことは明らかで、そのため杜甫にたまたま邢磁を賞する詩がある。しかし越磁を詠む詩は無い。ただし青磁や白磁が重んじられた唐の世に在って、惜しげもなく箸でもって越や邢の器を叩いて楽器とした者も在った。唐の段安節の「楽府雑録」に、「武家の朝、郭道源、よく瓯(かめ)を打つ、おおむね邢や越の瓯十二個を用いて、水をその中に加減して

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 白磁・音楽」

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・青磁」

          青磁  「源氏物語」末摘花の巻に「ひそく」の語が見え、また「うつぼ物語」藤原の君の巻の絵詞(えことば)に「ひそく」の坏(つき)などのあることで、秘色青磁は我が国の陶器を語る者達がうるさいほどに云い騒ぐことになって、しかもその器(うつわ)に伝来の確かなものが無いことで、終(つい)には「嬉遊笑覧」の撰者のように、「此処には渡らず」と断定する者も出るようになった。「源氏物語」・「うつぼ物語」・「李部王記」などに出ているのに、どうして全く伝来しないことなどがあろうか。このような稀な

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・青磁」

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」

           連歌はおもしろいものである。前の句と次の句が連なって、しかも各章は自然に流れて、句意が変わり言葉が変わっても、情景には通じ合うものがあり、彼より此れを生じ、甲より乙に行き、或いは直に行き、或いは横に流れて、転々と遷(うつ)り移って窮まることが無い。   この巻は私の庵の閑な折々に、取り止めない雑談を多少の因縁の糸の牽くに任せて、それこれと記したもので、題して聯話と云う。ただ古人の独吟や百韻のような勝れた味も無く勝れた趣も無いのは老人の戯れ仕事のためで、付けごころも分からない

          幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 月・霜」

          幸田露伴の随筆「無題」

          無題(無題で出来ました。無題にして置いて下さい。)    〇  むかしは朱引きの内外(うちそと)と云った。今は市部と郡部とを分けて市中と郊外とに区別するが、江戸から東京になり、東京から大東京になって、住民は日々に多く、住居は月々に増えて、朱引きの区分はとっくにその実質を失い、市と郡の境界もすでに名だけのものとなった。昨日の柴垣は今日のなまこ塀に変わり、ハンノキに霞のかかる野原も煙突から黒煙を吐く処(ところ)となり、すべてが活動写真のように目まぐるしく移り変って、市内も郊外も

          幸田露伴の随筆「無題」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草49・50」

          四十九 戦  人間界における戦争は自然界における雷雨のようなものである。陰陽の調和が破れて上昇と下降の吊り合いを失えば必ずこの上もない大雷大雨が起って、そしてその後に初めて天は澄み、地は潤って、草木は佳気をおび鳥獣に喜色の現われるのを見る。利害が相反して情理の通ずるところ無ければ必ず忿戦忿争の一場面があって、そしてその後に、初めて文明の光が布かれて和らぎ親しむ光景の生じるのを見る。自然界に雷雨は無くならず、人間界もまた戦争を無くすことができない。  戦争は水である。その水が人

          幸田露伴の随筆「潮待ち草49・50」

          幸田露伴の随筆「潮待ち草48」

          四十八 元の時の諺 ◦功名モ紙半張(はんちょう)  功名も結局は虚栄に過ぎないと卑しんで罵倒したのである。まことに偉大な功名と云えども、結局のところ一枚半枚の紙の上にその跡を遺すだけである。鄭徳輝(ていとくき・鄭光祖)の「王燦登楼(おうさんとうろう)」に出てくる。 ◦宝剣ヲ烈士ニ贈リ、紅粉ヲ佳人ニ贈ル。  これもまた「王燦登楼」に出てくる。高則誠(高明)の「琵琶記」の両賢女がめぐり合う場面にも出てくる。物は各々落ち着くところがあるべきなので、この諺はおもしろい。 ◦巧言

          幸田露伴の随筆「潮待ち草48」