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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・餅③」

 
 安乾が何物であるかを考えられる物は無い。ただ晋の武帝の娘である滎陽公主の婿に選ばれて、未だ結納の式も成さないうちに公主が亡くなり、しかも国の争乱に遭遇して不幸な生涯を送ったと云うから、束晳よりやや後の人だろうと思われる盧諶(ろしん)が撰した「祭法」があり、その中に云う、「四時の祀、皆安乾特を用いる(四季の祀には、皆安乾特を用いる)。」と。それによって考えると安乾は安乾特の略であろう、賦の辞法により特の字を省いたのであろう。安乾特は思うに支那国外から移って来た語であろう、物も製法も支那(中国)から出たものではない、随って異国語が伝わったのである。束晳の文に「或は製殊俗に出ず(或いは製法は民間から出る)」と云う、おそらく安乾特を指すのであろう。糺耳もまた明らかでない。ただ糺は糾と同字である。糺は縄を縒り合わせることであり、あざなうと訓(よ)む。麦粉を水で捏ねて、縒って縄状にして、又これを合わせて均質にすることは常にすることなので、これを合わせて一本にした物をその形をとって糺耳と云ったのであろう。狗后の后は後であり、鶏口牛後の後のようであって、狗尾である。糫餅のような環とならない半巻の形の犬の尾のようなので、狗后と云ったのであろう。糺耳も狗后もその名は美しくない。我が国でも天明の頃の子供の菓子に猫の糞というのがあり、黄表紙などに出ている。名をその形から取ったために美しくないが、世の中に於いてはこのようなことがあるのである。糺耳も狗后もその形から云う俗称なのである。思うに「或いは名は巷里(町中)で生まれ」と云うものは思うにこれを指すのであろう。剣帯も案成もまた当時の餅の名であろう。剣帯は形が長く、案成は方形のものであろう。餢飳は「齊民要術」で云うところの餢ユ(食+兪)であり、我が国に於いてその原音をとって「ふと」と云う軟らかな餅である。一面が白く、一面が赤く、輪縁も赤いという。「齊民要術」には十日の輭を得るとある。そのため我が国の「新撰字鏡」では餾をふとと訓じて、留めるべきことを云うのである。髓燭は髓脂蜜を麪に合わせ炉の中で焼いてつくる髓餅を云うのであろう。片側を焼くだけで裏返さないと云う。

 三春之初、陰陽交際、寒気既消、温不至熱、于時亨宴、則曼頭宜設(三春の初め、陰陽の交わる頃は、寒気は既に消えて、温熱も未だやって来ない。亨宴の時は曼頭を出すのに宜ろしい)。

 この一段は、春に於いては餅の中では曼頭が時宜に適すると云うのである。曼頭は饅頭である。饅頭を餅である云うと、今の我が国の人には甚だ異様に聞こえるであろうが、「餅」が今の我が国で云う「もち」ではないことは、これによって明らかである。饅頭の本来は蛮頭と書く。郎瑛は云う、「蛮地人頭を以て神を祭る。諸葛亮が孟獲を征服するや、命じて麪を以て肉を包みて、人頭と為して以て祭らしむ、之を蛮頭と謂う、今訛って而して饅頭と為すなり(蛮地では人の頭を用いて神を祭る。諸葛孔明が孟獲を征服するや、命令を下して麪で肉を包んだものを人の頭として祭らせる、これを蛮頭と云う、今は訛って饅頭と云うのである)」と。人頭を用いて神を祭るのは蛮地の風習である、孔明が教化して麪でもって肉を包んで人頭とする。曼頭餅の語があるのも不思議ではない。盧諶は「祭法」で云う、「四時の祀、曼頭、髓餅、牢丸を用いる(四季の祀りには、曼頭や髄餅や牢丸を用いる)」と。曼頭が祭に用いられたことは、信じることが出来る。

 呉囘司方、純陽布暢、服絺飲冰、随陰而凉、此時為餅、莫如薄壯。(火の神が四方を司どり、純陽は布を暢べ、薄い葛布を着て水を飲み、日陰の涼しさに落ち着く、此んな時に食す餅は、薄壯しか無い。)

 この一節は、夏時の餅は薄壯が宜しいことを云う。呉囘は火の神である。薄壯は当時の餅の一種の名であることが明らかだが、それと考えられる物は無い。推測するところ薄は薄餅上より掲ぐの薄で、壯は装である、包むなりの意味が薄い皮の餅にあるということか。前の髓燭の燭の字は、属や俗の字に合わせようとして用いられ、この壯は暢や凉の字に合わせようとして、壯の字が用いられたのだろう。薄壯は冷たい食べ物であろう。

 商風既厲、大火西移、鳥獣氄毛、樹木疎枝、肴饌尚温、則起溲可施。(秋風は既に激しく、太陽は西に移り、鳥獣は細毛となり、樹木は疎枝となり、肴饌は温を尚ぶ、則ち起溲を施す可し。)

 氄毛は細毛である。涼しい秋には起溲が用いられるべきだと云うのである。起溲は字面から考えると、餅麪が軟らかくて温かい流動するような餅麪であろう。

 元冬猛寒,清晨之会,涕凍鼻中,霜凝口外,充虚解戦,湯餅為最。(玄冬の猛寒で清冽な朝方は,涕が鼻中で凍り息の霜は口外に凝る,空腹を充して戦きを解くには湯餅が最高である。)

 ここでは寒さ甚だしく、体力も無く、戦慄するまでに冷えた時は、湯餅が好いと云うのである。湯餅は熱いスープの中に餅が有るのである。何晏が湯餅を賜って汗をかいた話や、蘇兄弟が貶謫路上で轍が轍が湯餅を食うことが出来なかった話などは、人々の間でよく知られいる話である。

然皆用之、有時所適者也、苟錯其次,則不能斯善、其可以通冬達夏、終歳常施、四時従用、無所不宜、唯牢丸乎。(さよう皆之を用いれば、時期に適すというものが有るのである、苟もその順を錯まれば、則ちこう善くはいかない、冬から夏まで通して善く、一年中あって、四季に用いて、宜しくないところが無いのは、ただ牢丸だけか)

 ここでは牢丸の四季を通じて宜しいことを云うのである。牢丸は字面のように餅が牢(かた)い丸になったものである。然皆以下の四十二字は陳元龍の「賦彙」に従って補入した。(④につづく)
 
注解
・盧諶:中国・西晋から五胡十六国時代にかけての人。「祭法」撰者。
・黄表紙:江戸時代に書かれた大人向けの絵入り読み物。
・「新撰字鏡」:平安時代に編纂された漢和字書。
・郎瑛:中国・明の文人。「七修類稿」「七修続稿」の著者。政治・社会・歴史・文学・天文・風俗などについて、前人の説や自分の見聞を記す。
・諸葛亮が孟獲を征服する話:蜀漢の諸葛孔明が南方の豪族の孟獲を征服した時の話。
・何晏が湯餅を賜って汗をかいた話:魏の明帝が部下の何晏の色が白いのは化粧しているからではないかと疑い、夏に湯餅を食べさせたという話。「世説新語」
・蘇兄弟が貶謫路上で轍が湯餅を食らうことが出来なかった話:中国・宋の政治家・詩人であった蘇軾(蘇東坡)と蘇轍の兄弟が左遷され任地に赴く途次での話。
・陳元龍の「賦彙」:中国・清の時に陳元龍等によって編集された歴代賦体文学の総集。「歴代賦彙」


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