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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈③」

 潯陽江上の遊女の琵琶と宮中楽人の箜篌では器物はすでに異なる。楽天の琵琶行と李賀の箜篌引では音調は別物である。これを比較して優劣を論じるようなことは私の望むところではない。ただ私は李賀の詞を愛するだけである。
 李賀の詩には佳句が多く、前人が称揚するものもこれまた甚だ多い。その中で「許彦周詩話」は云う、

楊花 帳(とばり)を撲(う)って 春雲熱す

と。才力は甚だ遠く人を超える。

柳塘(りゅうとう) 春水 漫く
花塢(かう) 夕陽 遅し

の厳維の詩は欧陽脩の賞するところであるが、しかし李賀の語に及ばない。李賀の句はもちろん佳である、しかし厳維の柳塘花塢の一聯も、春の日の気候の融和を描いて佳く、漫と遅の二字にも人を感じさせるものがある。李賀の句は、春がやや終りとなり、人も厚着に堪えられないほど暖かとなり、天の雲の光も白くきらめいて力強くなった頃を詠んだもので、対する景色も異なり同じように論じることは難しい。そのため次句に云う、

亀甲の屏風 酔眼纈(すいがんけつ)

と。屏風は今の我が国でいう「衝立(ついたて)」というものである。亀甲の屏風を詳しくは知らないが、亀甲を加工して繋いで平らに延ばした物か、思うに木片を用いて造り、亀甲のように六角が連なり合う模様を作り、繋ぎ合わせて造られた細工物であろう。夏近く雲耀き、楊花乱れ飛んで、室(へや)に迫り帳(とばり)を撲(う)つ時、緻密な細工の亀甲屏風を酔眼纈(すいがんしぼり)と云う采纈(さいけつ・絞り染め)にかけて亀甲屏風酔眼纈と云う。温気のさまを云い取ったその巧みさは驚くべきものがある。纈は我が国の言葉では「くくる」とか「くくり」と云い、結ということである。采纈である、絞纈である。酔眼纈の三字は庾子山の「夜に聴く擣衣の詩」の

花鬟酔眼纈 龍子細文紅

とあるのにもとづいている。しかし庾の句は、人はこれを称えない。倪璠が注で、「涙眼酔うようで、この砧杵の際に当たって、或いは乱髪が下垂し眼と繫がるようだ」と云ったのは解釈が深過ぎる。酔眼纈は采纈であるだけである。また龍子を守宮として「博物誌」を引用して解釈するのも、解釈し過ぎて作者の意にかなうかどうか分からない。纈染(しぼりぞ)めで模様を作るのを酔眼纈(すいがんしぼり)と云い、一面に細かに並ぶのを魚子纈と云う。我が国では俗に疋田鹿子と云う。魚子纈は段成式の詩の句に「酔袂幾侵魚子纈」と出ている。龍子の細文は思うに我が国の俗に云う柳絞り云うもので、細長く絞り染めしたものを云うのだろう。一聯は衣服について云う、そこで次句に「吹衣一夜風」の語があるのである。

摺(ひだ)は湿る通夕(つうせき)の露
衣を吹く一夜の風
 
 摺は褶襞(しゅうへき・衣のしわ)である、また袷(あわせ)である。衣を吹く一夜の風、これもまた平淡で佳句である。

玉堦の風 転(うたた)急なり
長城の雪 闇(くら)かる応(べ)し

 遠征の夫を思う余りに、衣を打つ女が此方の風の急なのにつけても、万里の長城の寒く悲しい彼方を想いやるのである。何とも云えない好い句である。韻を換えたところは、用いる字は百千万ある中で闇の一字を取り出して用いる。吟じ返し吟じ返して味わわなくとも、闇の一字に霊力が有って人に涙を催させる。庾子山は実に大才である。杜甫が李白を憶う詩で、「清新庾開府 俊逸鮑参軍」と云って暗に李白になぞらえて庾子山をもってしたのもまた納得ができる。ただし次の酔眼纈の三字については李賀が勝れていて、第一人者の観がある。我が国において纈(くくる)の言葉を用いた優れた詩歌に、「古今集」秋下の在原業平の、

千早ふる神代も聞かず龍田川
からくれないに水くくるとは

の和歌がある。龍田川とあるだけで紅葉の語はないが、紅葉清流の景色を詠んでいる。古人の意(おもい)は寛い、後の題詠を専門とする者達が甚だ落題を嫌ったようなことは無いのである。この歌がひとたび出てからは和歌詠みで、「くくる」の語を用いる者が甚だ多くなった。

注解
・潯陽江上の遊女の琵琶:白楽天の詩「琵琶行」中の琵琶。
・宮中楽人の箜篌:李賀の詩「李憑箜篌引」中の箜篌。
・許彦周詩話:中国・南宋の許顗撰。許顗、字は彦周。
・欧陽脩:中国・北宋の政治家・詩人・文学者・歴史学者。字は永叔、号は醉翁・六一居士。諡名は文忠。唐宋八大家の一人。
・厳維:中国・唐の詩人。
・庾子山:庾信、字は子山。中国・南北朝時代の文学者、詩人。
・倪璠:「庾子山集注」の注釈者。
・段成式:中国・唐の詩人、文人。随筆集「酉陽雑俎」の著者。
・古今集:「古今和歌集」。醍醐天皇の詔により撰ばれた最初の勅撰和歌集。
・在原業平:平安時代の貴族・歌人。三十六歌仙の一人。
・落題:和歌・連歌・俳諧などで、題意を詠み落とすこと。 また、その歌や句。



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