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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・青磁」

青磁

 「源氏物語」末摘花の巻に「ひそく」の語が見え、また「うつぼ物語」藤原の君の巻の絵詞(えことば)に「ひそく」の坏(つき)などのあることで、秘色青磁は我が国の陶器を語る者達がうるさいほどに云い騒ぐことになって、しかもその器(うつわ)に伝来の確かなものが無いことで、終(つい)には「嬉遊笑覧」の撰者のように、「此処には渡らず」と断定する者も出るようになった。「源氏物語」・「うつぼ物語」・「李部王記」などに出ているのに、どうして全く伝来しないことなどがあろうか。このような稀なものを尊いと思うあまりに秘色を青磁のはじまりのように思って、誤って覚える者が多くなったものか、我が国でも「五雑俎(ござつそ)」巻十二では、「陶器は柴窯が最も古い、今の人はその破片を金や翡翠(ひすい)と同様な価値があるとしている。」と記している。しかしながら流石に謝肇淛(しゃちょうせい)は見識が広いので、唐の時には既にあるハズだと思って、陸亀蒙(りくきもう)の詩を引用して記して、唐の時に陸亀蒙の詩に、

 九天の風露 越の窖(かま)を開き、
 得て 千峰の秘色を奪い来たる。

と既にあることを云う。しかしながらこれもまた文字に誤りがある。青磁は唐の時に既にあり、また秘色も既に柴世宗(さいせしゅう)以前にあったとするのはよいが、ただ千峰の秘色では全く語に成っていない。皮襲美(ひしゅうび)と並び立つ晩唐の大詩人である陸亀蒙が、どうしてこのような愚句を作ることがあろう。恬淡として名利を軽んじて江湖散人と名乗り、ただ詩と釣りと酒と茶とに生涯をかけて悔いなかった人だが、その学は春秋の学を主とし、その性質は清冽で、心の染まないことがあれば鳥のように起ってその場を離れたと云われている。遺した詩がこのようになっているのを知ればさぞ、後の人の物事の理解力の無さに眉をひそめることだろう。陸詩十四巻は今なお存在する。その第十二巻に、

  秘色越器
 九秋の風露 越の窑(かま)を開き、
 得て 千峰の翠色(すいしょく)を奪い来たる。
 好(よろ)し 中宵に向(お)いて 沆瀣(こうかい)を盛り、
 嵆中散(けいちゅうさん)と共に 遺杯(けんぱい)を闘わさん。

とある。秘色越器は詩題である。越は産地の名。秘は祕の俗体の字で、示が禾に誤ったのは既に晋や宋の時からである。祕は神であり、密であり、知ることのできない得ることのできないものは皆祕である。呉越の時の「宛委余編(えんいよへん)」に「以て内廷供奉之器(ないていぐぶのうつわ)と為し、臣庶を禁じて用いられないとする、之を秘色という」と出ているが、呉越の時より前にすでにこの詩はある。祕色の二字は唐の時からすでに在ったのである、器が磁器であるのは云う迄もない。サテ詩の起句に、「九秋の風露 越の窖を開き」とある、九秋なので風露にかかって宜しいが、九天では天の字が混沌としていて落着きがなく、晩唐の詩のようではない。窑(かま)は窯の俗体の字でやきがまのことであ。次句の千峰の翠色は、前句の秋の字を受けて、特に美しい秋の山の色を写し得たとして、この瓷器の美しい青いさまを称えたのである。因みに云うと、日用の磁器の磁の字は思うに河南の磁州の器の多いことから生じた名で、我が国で瀬戸の器が多いので瀬戸物と呼ぶように日用の磁器のことである。祕色青瓷のことを云う時は瓷の字の方を用いたい。第三句の向の字は、我が国では向ってと対向の意味に読み慣らわして来たが、対向の意味では無く、だいたい於の字のようであって、おいてと読むべきである。中宵は真夜中である。沆瀣は神仙が食すもので、夜気や露気の類のめでたいものと理解すべきである。嵆中散は晋の高子の嵆康(けいこう)のことである。「楚辞」に「六気に餐(くら)い而(しか)して沆瀣を飲み、正陽に漱ぎ而して朝霞を食す」とある。それに基づいて、嵆康の「琴ノ賦」の中の詞(うた)に、「沆瀣を餐い、朝霞を帯(お)ぶ。眇翩翩(びょうへんぺん)として、薄天に遊ぶ」と作られている。転結の二句は、これによって秘色の越器が如何に優れて清らかで美しいかを、人間の飲む酒や茶を盛るよりは仙人の餐う沆瀣を盛るべきであると云って褒めたのである。これによって秘色の名が唐の時から既にあったことが明らかであるが、銭氏が呉越を領有した時から秘色が世に出たという俗説と異なるものとしては、元の陶南村が宋の葉寘が著した「垣齋筆衡」を引用して、陸詩を挙げて論じている。ただ宋・元の人は、秘色の二字が既に詩題になっていることを示さないで、詩句だけを示したので、後には理屈に合わない千峯秘色などということを云い出したのだろう。およそ昔の事を論じるのに、その本(もと)に拠らずにその末にはしり、前人の引用したものを挙げてそれを根拠とすることを、我が国の言葉では孫引き学問と云って、好ましく無いものとされている。しかしながら孫引きは世に多く、咎めても切りがない。サテ祕色の語は唐から既に存在していることは陸詩の詩題で明らかであるが、その一ツの立証だけでは力が無い。そうした中でたまたま徐寅の詩集を読んだところ、また一ツ立証を得た。徐夤の詩集は今四巻が伝わっている。徐寅は乾寧の進士なので陸亀蒙よりも少し後の人である。「徐集」巻三に青瓷の美しさを詠んだ七律がある。題して「貢余秘色茶盞(こうよひしょくちゃさん)」という秘色の一語は、先ず陸亀蒙の孤立を援ける。それにもましてその上に冠せた貢余の二字は、人の眼を射る。詩に云う、

 翠(すい)捩(ねじ)じれ青融けて 瑞色(ずいしょく)新たなり
 陶成りて先ず得たり 吾君(わがきみ)に貢するを
 巧みに明月を剜(えぐ)りて 春水(しゅんすい)を染む
 軽く薄氷を旋(めぐ)らして 緑雲を盛る
 古鏡(こきょう)苔を破りて 席上に当り
 嫩荷(どんか)露を涵(ひた)して 江濆(こうふん)に別るる
 中山の竹葉(ちくよう)の醅(もろみ) 初めて発す
 多病那(な)んぞ堪えん 十分に中(あた)るに 
 
 第一句は、捩翠融青の四字で美しい青色の物であることを活写し、瑞色新の三字でめでたくも新たな気配を云う。第二句は、陶成りて先ず得たり吾君に貢するをと云って、この器が献上品であることを説明し、かつそのお余りを得たことを喜ぶことを云う。巧みに明月を剜りて春の水を染めと云う一句で、器が円くてやや透明気味でスッキリとして且つ柔らか気味があって、おだやかで又さっぱりとして、色むらなど少しも無く、しかもピンとした張りがあり、仙雲が此の世ではないような色を湛えたようなさまを表現している。この一聯を善く味わうと、未見のものではあるがその青瓷が眼前に在るように覚えて、唐詩人の中でそれほど人に褒められることのない徐夤の詩力もまた、甚だ異なったものがあると感じさせる。古銭と嫩荷の二句は、その器がここに在ることを鏡と荷になぞらえて云いながら、破苔古涵露の四字もまたその情態を写し得て好い。末の二句は感じた余韻を表したものであり多言を要しないといえども、巧剜軽旋の一聯は青瓷の精神を伝えて、今の外観を写すだけの技に比べても勝れている。詩もまた巧剜軽旋であると云える。  英国のユーモボルス氏が、いわゆる未(ま)だ見ぬ恋にあこがれて、大金を懸けてでも秘色青瓷を得たいと欲し、恋々(れんれん)の情、已み難いものがあると聞く。徐寅の詩のようであれば、真(まこと)に未だ見ぬ恋にあこがれるのも尤もなことであろう。(②につづく)

注解
・嬉遊笑覧:江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書かれた喜多村信節の随筆。
・李部王記:醍醐天皇の第四皇子重明親王の日記。
・五雑俎:中国・明の謝肇淛が著わした随筆。
・陸亀蒙:中国・唐の詩人。
・紫世宗:柴栄。中国・五代十国時代の後周の第2代皇帝。
・皮襲美:皮日休。中国・唐の詩人。襲美ほ字(あざな)。
・沆瀣:北方の夜半の気。仙人の飲みもの。
・呉越の時:中国・五代十国時代。
・呉越:中国・五代十国時代に存在した呉越国。
・宛委余編
・嵆康:中国・三国時代の文人。竹林の七賢の一人。中散大夫に任じられたので嵆中散とも呼ばれる。
・楚辞:「楚辞」は中国戦国時代の楚地方に謡われた辞と呼ばれる形式の韻文を集めた詩集の名前。その代表作に屈原の『離騒』がある。
・朝霞:朝日に照らされた紅色の雲。仙人の食べ物。
・銭氏:呉越国の王。初代呉越王は銭鏐(せんりゅう)。
・陶南村:陶宗儀。中国・元末から明初にかけての学者で文人。
・徐寅:中国・晩唐の文人。


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