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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈①」

 音でもって情をのべ感を伝える、之を音楽と云い、言葉でもって状をあらわし懐を述べる、之を詩と云う。その表現の形態は全く異なるが、その内包するものは殆んど同じで通じ合うものがあるのである。それなので昔から詩歌には音楽についていうものが多い。推測するところ大昔に於いて詩は即ち楽詞であり、音楽はむろん詩旨であったのであろう。詩に音楽をいうものが多いのも不思議なことではない。ただ我が国の奈良朝以前について云えば、大和の歌は幸に存続しているが、大和の音楽はすでに詳しく調べることは難しい。これは我が国が中国の隋唐文明の洪流に席巻されたことによるもので、昔の和歌において昔の和楽をいうものは琴笛に関するものが数章あるだけである。奈良朝以後は白楽天の詩が大いに我が国の人の愛するところとなって、之を尊重し之を規範とするようになる。楽天にたまたま「琵琶行」がある。左遷された身の楽天が、潯陽江上で都落ちした遊女の琵琶を聞く、もともと詩境絃声に人を感動させるものがあるのに加え、楽天の豊かな詩情は六百十二言を織り成す。読者に悲愴の感を抱かせるのもまた当然である。しかしながら、その後の我が国の人が、詩の音楽に関するものを云う時に必ず「琵琶行」を云って、まるで他には音楽に関する詩が無いように云うのは云い過ぎである。「文撰」の王子淵の「洞簫賦」や馬季長の「長笛賦」や嵆叔夜の「琴賦」など、時世を遠く隔ててその文字は今の人に親しみは無いが、その高雅で優麗、博大で豊富、独自な奥深さはもとより堂々と聳えて、永遠に勢威を張る。であるのに人が之を称えなくなったのは、たとえば厳冬の寒さが去れば毛皮の衣(ころも)も捨てられるというようなことか。楽天の詩の、「軽攏慢撚抹復挑・・・軽く攏(おさ)えて慢(ゆる)く撚(よ)り抹(な)でて復(ま)た挑(は)ね」から「此時無声勝有声・・・此の時 声無きは声有るに勝る」までの十二句、ことに

嘈嘈切切錯雜弾・・・嘈嘈(そうそう)切切(せつせつ)錯雜として弾(だん)ず
大珠小珠落玉盤・・・大珠(だいじゅ)小珠(しょうじゅ)玉盤に落つ
間関鶯語花底滑・・・間関(かんかん)たる鶯語(おうご)は花底に滑らかに
幽咽泉流氷下難・・・幽咽たる泉流は氷下に難(なや)む

の四句などは体物の妙を尽くし、此の時無声の一句もまた音楽の行き着く処を描いて徹底する。ただその次の聯(れん)の、

銀瓶乍破水漿迸・・・銀瓶乍(たちま)ち破れて水漿(すいしょう)は迸(ほとばし)り
鉄騎突出刀槍鳴・・・鉄騎突出(とっしゅつ)して刀槍は鳴る

となっては、琵琶の声の烈しさを写して宜しくはあるが、ただこれ壮美な字面(じづら)で老婆子供をおどろかす幻惑の技というだけで、どうして銀瓶を乍(たちま)ち破るようなことがあろう。例えの表現であろうから責めることもないが、銀字は用いて雑、また鉄騎突出して刀槍鳴るは、上杉謙信に突然襲われたような恐るべき雑音に思えて、感心するような楽声には聞こえない。力まかせに無茶苦茶に弾く大薩摩を聞くようで、穆善才の弟子の琵琶とも思えない。しかしこれはこれで、少しのキズを云うことも無く、無理やり欠点を挙げることもない、と批判を受けよう。ただし、楽天にはまた別に「新楽府」五十篇があり、その中の五絃弾に、

第一第二絃索々・・・第一第二の絃索々たり
秋風払松疎韻落・・・秋風松を払い疎韻(そいん)落つ
第三第四絃冷々・・・第三第四の絃冷々たり
夜鶴憶子籠中鳴・・・夜鶴(やかく)子を憶(おも)いて籠中(ろうちゅう)に鳴く
第五絃声最掩抑・・・第五の絃声は最も掩抑(えんよく)す
隴水凍咽流不得・・・隴水(ろうすい)凍り咽(むせ)んで流不得(ながれえず)

とある。この篇もまた音楽に関する詩として、人が挙げることが多い。

鉄撃珊瑚一両曲・・・隴(ろう)水(すい)凍り咽(むせ)んで流(ながえ)不得(えず)
氷瀉玉盤千万声・・・氷の玉盤(ぎょくばん)に瀉(そそ)がる千万の声

などと云う喩えの巧みな句もあって、もちろん趣意も悪くない篇である。しかし趙璧の弾じた五弦琵琶と云うものがどのようなものであるか知らないが、およそ音楽というものは、この音あの音が錯綜し、この声あの声が饗応し合って出来るもので、一弦一音では何の楽趣もないものである。一弦の琴は左手で絃の押さえ処を変えて高低の音を出し、そうした後に前韻と後韻が交じり合って曲が出来るのである。この詩のように第一第二の絃は云々、第五の絃は云々と云っては、その弦その弦に楽趣があるように聞えて甚だ道理に合わず、またその各絃の声を写したとすれば、この二声の一筆はいよいよ道理に合わない。ことに第一と第二の絃を合わせて風松の声とし、第三と第四の絃を併せて夜鶴の鳴き声とするなどはお粗末もまた甚だしく、いたずらに言葉だけで、その指し示すところは明らかでない。詩はもちろん事実を伝え道理を通すだけが目的ではなく、幽妙(ゆうみょう)も朦朧(もうろう)もまた排斥するものでは無いが、このようになっては只の出鱈目な言葉の羅列で、これではただ金や碧を撒き散らしたが遂に画と成らなかったようなものだ。しかし楽天は元来が大力量大手腕の持主、九才で声律を理解し、十五六においては顧況を驚嘆させる。そして詩ができると謙遜して飯炊きをする老女に批評を乞うたと云う。詩が必ず世俗に歓迎されることを望んだのである。稀有の大才をもって通常の女子に迎合するのは易しい。それなので楽天の詩は大いに世に流行して女子供までもが愛誦して競って伝え、朝鮮の貿易商なども楽天の詩篇を求めたという。我が国に於いてもまた女性や学生が楽天の詩のとりこになったことを知るべきである。当時の好みがモシ元稹や白楽天のようなものでなく、李白や杜甫や「白氏長慶集」が出る前のもののようであったなら、我が国の文学の発達はさぞや数倍進歩したことであろうが、惜しむべくも恨むべくも、楽天の余韻は平安の昔から流れて今に至っても尽きない。老いても傲骨を有していた清少納言でさえ、その若い時には「香炉峰の雪」の句で知られて才名が伝えられ、藤原公任は基俊に「朗詠集」「新朗詠集」に五弦弾や琵琶行その他の句を多く採録させたために、それから後は花と云えば桜、文集と云えば「白氏文集」と覚えられるようになった。彼の国にも唐の時に早くも張為のような騙されやすい者がいて、「詩人主客図」三巻を編んで、白楽天を広大教化主にしたが、楽天の詩が広く一代に流行したことから云うと、これもまた否定はできないが、楽天を仏や聖人のように崇め尊むとは。アア、これまた行き過ぎである。李調元の云うように宋人の詩派の説、或いは本当に主客図にもとづくものかは知らないが、楽天の先輩の顧況を殿堂の一人とするなど、その無知なことは人の笑いを招く。楽天もとより才があり楽がある。ただその詩を作るに当たっては、ただ正に芸術の良心に従うだけであって、何で無知な老婆に問う必要があろうか。広大教化主が飯炊きをする老女に批評を請うとは何とその醜いこと、しかも、楽天にこの一段の用心があって、世の評価を得て、時代の傾倒するところ愛尚するところとなり、居ながらにして広大教化主となる。このため杜牧に楽天を論じる言がある。云う、「やたら繊細な技巧を用いて美しく飾り立てていて、壮士や雅人の為すようなことでない、人々に流行し父は子に母は娘に交々(こもごも)口授する、みだらな汚れた言語が人の肌骨(きこつ)に入って消し去ることが出来ない」と。杜牧の詩は風情豪邁で人は小杜と呼ぶ。楽天の詩に飽き足らないことは、もとより云うまでもない。宋の時代になってからは朱子が楽天の「琵琶行」の「嘈嘈(そうそう)切切(せつせつ)」の二句を騒々しい音と切々とした音が交り合って度が過ぎるとし、「淒淒不似向前声・・・淒淒(そうそう)向前(こうぜん)の声(こえ)に似ず」の二句を淡泊すぎて足りないとし、なお他にも楽天を批判する言がある。朱子は道理を重んじる儒学者である。楽天の詩に不満があるのも、これもまた尤もである。我が国に在っては平安の世から数百年、楽天の詩を尊重して異論がない。大江匤房の談話を藤原実兼が筆録したという「江談抄」第四に、「古賢伝えて云う、白氏文集一本の詩、渡来して御所に在り、大切に秘蔵されていて、敢えて見る人無し、天子が御覧になり、そして行幸されて、

閣を閉じ唯聞く朝暮れの鼓
楼に登り遥かに望む往来の船

と彼の集の句を一字改めて用いられて御歌あり、小野篁(おののたかむら)を呼んで見せしたまう。篁(たかむら)そこで天子に申し上げて云う、遥を空になされば最も美しくなりましょうと。天子驚かれて、この句は楽天の句である、汝(なんじ)を試したのである、本(もと)の字は空である、今汝の詩情は楽天と同じであると褒めたたえられたことがあった。篁の才思は楽天の詩心に徹しているとして重く褒めたたえられたのである。我が国に於いても楽天は広大教化主と仰がれていたものか」と云う。ただ足利期(室町時代)に入って謡曲に「白楽天」があり、我が国で初めて楽天を軽視する意(おもい)を示す。曲は楽天が皇帝の命令を受けて日本に渡来して、日本の風雅の道の深浅を知ろうとするところから始まり、海上で我が国の一漁翁に遇う、問答の末に、では目前の景色を詩に作って聞かせようと云って楽天が、

青苔 衣を帯びて 巌(いはお)の肩にかかり
白雲 帯に似て 山の腰をめぐる

と吟じると、漁翁は

苔衣(こけころも)着たる巌(いはお)はさもなくて衣(きぬ)着ぬ山の帯をするかな

と和歌を詠んで、我が国では人間だけではなく生きているもので歌を詠まないものは無いと語る。楽天はビックリして、「実に和国(わこく・日本国)の風俗は風俗は、心ある海士人の実に有難い習慣にまでなっている」と云って、漢土(もろこし・中国)に帰ることを述べた。これはやや我が国の風雅のために気を吐いて、楽天を屈服させているようである。しかしながらこの一曲は巧みでも美しくもない。また青苔白雲の一聯も楽天のものでは無くて、「江談抄」に出ている「白雲帯に似て山の腰を回り、青苔衣の如く巌(いわお)の背に掛かる、(在中詩)」とあるのが本(もと)のようで、また和歌もこの詩の次にある、「こけ衣きたる巌はまびろけて衣(きぬ)着ぬ山の帯するはなぞ」とあるのから出たか、或いは不確かな伝えの、「苔衣着たる巌は寒からで衣着ぬ山の帯をするかな」とあるのから出たようで、何れにしても詩も和歌も佳(よ)いとは云い難い。謡曲はもともと衰世のものなので取り上げる価値はない、ただ趣意の昂然としたところを取るだけである。これに比べれば芭蕉の俳諧以前の俳諧連歌の一句に

第一第二の絃はじょきじょきとして牛蒡を刻む

と云うのがあるが、如何にも滑稽突飛で、楽天の詩をバカにしたようなところがあるのが可笑しい。俳諧が次第に行われようとする頃は、李白・杜甫・王維・韋応物・蘇東坡・黄庭堅の風が吹き渡って、また「三代集」以後の歌人等が元稹や白楽天だけを尊崇したようなことも無いので、自然とこのような句も出て来たのである。稹は軽薄で白楽天は俗であるとの評定が行き渡って、後人は二人を尊まなくなったが、その実、二氏の力の偉大であったことは、仙才の蘇東坡でさえなお楽天を愛し、劉昫の「唐書」には、元稹が楽天の詩集に序文を寄せて、具(つぶさ)に推奨した長が長しい文章が採録されていることを見ても、知ることができる。卑俗巧麗な一派を興したが、二氏の功罪は大きいと云える。元稹は字(あざな)は微之と云い楽天とは同調の友で、互いに調和し互いに悦び、当時の詩を評する者はその詩風を元白体と呼び称えた。もちろん大才の人で元和の初めに登用試験に合格して第一位となり、後には栄進して宰相までなった人である。しかし聡明鋭敏ではあったが重厚厳正とはいえず、その詞章によって宮中の女性の間で元才子と呼び囃されたが、威厳や人望において世間は宰相の器ではないとして、唐史の上では余り芳しくない名を遺している。支那の戯曲を云うものが必ず挙げるあの艶絶な「西廂記」は、実にこの人の二十二才もしくは二十三才の時に著わしたと云われる伝奇小説「鶯鶯伝」が、後世の男女の情を動かしたことによって成る。元稹の詩人的な人であったことが知れる。この元稹は長い間、李賀と交わりを結びたいと願っていたが、或る日、盛装してその家を訪れた。しかし李賀は名刺を見て応じず、すぐさま下僕を使って言わせて、「明経第に中(あた)りたまえり、何ぞ来たりて李賀を見ることをされる」と云う。言葉の意味は明経第(登用試験)に合格した貴方のような方が、私のような者を訪れて何となさる。というのである。このため元稹は願いかなわずに憤慨して帰り、永く恨みを懐いて李賀を抑えて世に立つことを困難にしたという。これは「劇談録」その他に出ていて人の知るところであるが、たとえこのことが無くても、思うに李賀と元稹や楽天は認め合うことのできないもので、その詩風には全く異なるものがあるのである。姚文燮が、

老嫗の可否を竈前に於いて問う、
才子の声誉を禁中に博す。

と楽天と元稹を罵って、「長吉(李賀)豈(あに)心に之を許さんや(李賀がどうして之を許すことあろう)」と云ったが、果たしして李賀の思いに中(あた)っているかどうかは知らないが、李賀がいわゆる元和体の詩を好まなかったことは明らかである。「新唐書」に「李賀、字は長吉、七才にして文章を能くする。韓退之と皇甫持正は、これを聞いても初めは信じられない。その家に行って詩を作らせたところ、筆を執って直ぐ出来る、即興のようである、自分で題して「高軒過」と云う、二人大いに驚く、これより有名になる。」と記されている。「高軒過」の篇は百言に近い作品で今も現存する。詩意は少年のものであることを想わせるが、文章は少年の作のようではなく、実に驚くべき才能である。年わずか二十七で死に、その詩は伝えられて今に至り、バケモノとの陰口はあるが唐の世に耀いて、宋景文をして、「李太白は仙才、長吉は鬼才」と云わせ、ついに世の定評となる。はじめてその詩を編集したのは沈子厚で、はじめてその詩集の序を書いたのは杜牧である。杜牧はかつて楽天を批判した者であるが、李賀の詩を繰り返し称美して、その佳いところを喩えておよそ九則を挙げる。杜牧が李賀を好み楽天を好まないのは無論だが、李賀と楽天との詩風の隔たりの大きいことも知るべきである。(②につづく)

注解
・箜篌:小型の竪琴。ここでは「こうこう」としているが一般には「くご」と読む。
・白楽天:白居易、楽天は字(あざな)(通称)。中国・中唐の詩人、詩文集「白氏文集」がある。
・琵琶行:白楽天の詩。
・潯陽江:揚子江の異称。
・文撰:中国・南北朝時代の南朝梁の蕭統によって編纂された詩文集。
・王子淵:王褒、子淵は字(あざな)。中国・前漢の文学者。「九懐」「洞簫賦」などの辞賦を著わした。
・馬季長:馬融、季長は字。中国・後漢の学者・政治家。
・嵆叔夜:嵆康、叔夜は字。中国三国時代の魏の文人。
・穆善才:中国・唐代の琵琶の名手
・趙璧:中国・唐代の五弦琵琶の名手。
・声律:漢字の四声(平声・上声・去声・入声)についてのきまり。
・顧況:中国・唐の詩人。
・元稹:中国・唐の詩人。字は微之。
・李白:中国・唐の詩人。字は太白。後世に「詩仙」と称される。
・杜甫:中国・唐の詩人。字は子美。後世に「詩聖」と称される。
・白氏長慶集:長慶四年に「白氏長慶集」の名で出された「白氏文集」の最初のもの。
・傲骨:李白は腰にかたくつよい骨があるので身を屈することができないと世人に評された。そのつよい骨のこと。
・藤原公任:平安時代中期の公卿・歌人。三十六歌仙の一人、百人一首では大納言公任。「和漢朗詠集」の撰者として知られる
・基俊:藤原基俊、平安時代後期の公家・歌人・書家。
・張為:中国・中国晩唐の詩人。「詩人主客図」の著者。「詩人主客図」は「論語・先進」に基づいて詩人を主として上入室・入室・升堂・及門の五段階に分けて評価した。上入室以降は客側の位置付け、そして楽天を広大教化主の位置に置く。・李調元:中国・清の文人。
・杜牧:中国・中国晩唐の詩人。字は牧之。晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と剛健の両面を持つ。
・朱子:朱熹。中国・南宋の儒学者。朱子学の創始者。朱子と尊称される。
・嘈嘈:騒々しい音、騒がしい音。
・切切:切切の音、ひそかな音。
・淒淒不似向前声:前とは似ないうら悲しい音。
・道学先生:道徳にとらわれ、世事人情にうとく融通のきかない学者を軽蔑していう
・大江匤房:平安時代後期の公卿・儒学者・歌人。
・藤原実兼:平安時代後期の蔵人・漢詩人。
・江談抄:平安時代の説話集。大江匡房の談話を、進士蔵人藤原実兼が筆記したもの。
・天子:嵯峨天皇のことか?
・小野篁:平安時代初期の公卿・文人。小倉百人一首では参議篁。
・王維:中国・唐のる詩人。字は摩詰。
・韋応物:中国・唐の詩人。
・蘇東坡:蘇軾、中国・北宋の政治家・文豪・書家・画家。字は子瞻。東坡居士と呼ばれた。
・黄庭堅:中国・北宋の政治家・書家・詩人・文学者。
・三代集:「古今和歌集」、「 後撰和歌集」、「 拾遺和歌集」の三勅撰集のこと。
・西廂記:中国・元の王実甫による雑劇である元曲の代表作。正式な題は「崔鶯鶯待月西廂記」。
・鶯鶯伝:中国・唐時代の伝奇物語。
・李賀:中国・唐代中期の詩人。字は長吉。李昌谷とも呼ばれる。その詩は伝統にとらわれず、はなはだ幻想的で、鬼才と評された
・劇談録:中国・唐代の小説集。晩唐の康輧の撰。
・姚文燮:中国・清代の注釈家、「昌谷集註」四巻の著者。
・新唐書:中国・唐代の正史。五代の後晋の劉昫の手になる「旧唐書」と区別して「新唐書」と呼ぶが、単に「唐書」と呼ぶこともある。欧陽脩等の編纂により「旧唐書」の欠落を補う。
・韓退之:韓愈、字は退之。中国・唐代の詩人、文章家。
・皇甫持正:中国・中唐の官人。字は持正。
・宋景文:?
・劉昫:中国・五代後唐から後晋にかけての政治家。
・沈子厚:?


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