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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話 琵琶・箜篌・纐纈②」

 李賀の詩集を読むと開巻一番、「李憑箜篌引(李憑箜篌の韻)」がある。李憑は当時の巧みに箜篌(こうこう)を弾いた者である。箜篌は今のハープと云うものの類である。昔、劉熙は「師延が作る軟弱で退廃的な音楽の楽器は、思うに空国の侯が作った楽器であると云い、漢の武帝は楽人の侯調に作らせたと云い、また或いは侯輝が作ったもので、その声(音)は坎々(かんかん)として節(ふし)に応じるので坎侯と云ったが、後に訛って箜篌と成ったとも云い、甚だ諸説おびただしいが、唐の大儒の杜佑は、「竪箜篌は胡の楽器である、漢の霊帝はこれを好む、体(形体)は曲にして(曲っていて)長し、二十有三絃、竪てて懐中に抱き、両手を用いて斉(ひと)しく奏す、俗に之を竪箜篌と云う」と云っているが、唐の時の箜篌を説明して要領が良く正しく、且つ詳しいと云える。琵琶は手を推して進むときは琵(ピー)と云い、引くときは琶(パー)と云うところからその名が出たのであろう。思うに箜篌もその最初は伝来のものであったので、その音の箜篌(コンコン)から名が付いたのであろう。空国の侯から出たなどと旧伝にあるが、こじつけの言葉であろう。「文献通考」に「箜篌の唐製のものは瑟(ひつ)に似て小なり、その絃は七ツあり、木の撥(ばち)を用いて之を弾じる」と云うのは人を誤らせる。これは箜篌の最も小さいものを語ったので、唐製の箜篌の総てがそうなのではない。箜篌にはもともと大箜篌あり中箜篌あり小箜篌があって、魏の高陽王の雍(よう)が美人の余月華に弾かせたのは臥箜篌である。李賀の詠じた李憑が弾いたのは竪箜篌である。柱と首に鳳喙(ほうかい)を付けたものは鳳首箜篌である。唐の世において能く箜篌を弾じた者は、李憑の後では太和年間に李齊皐があり、咸通年間では張小子があり、その名が伝わっている。唐が衰えて箜篌の楽もまた随って衰える。明になってからはその楽器もまた殆んど絶えて、楊升庵がわずかに之を蜀の地で得て、世も再び之を知るようになった。我が国の奈良朝時代は唐の最盛期にあたる。そのため当時の佳器が伝わり珍重されて今に遺る。箜篌(くご)あり、琵琶あり、阮咸(げんかん)あり、楽器はみな精緻優麗で人を驚かすに充分なものがある。
 古(いにしえ)を真似て模造品を造る。細心の注意を以って慎重に製作し、その甲斐あって成功し、新しい楽器はそのまま古の宝器のようである。そして博物館に之を陳列して人々に見せる。これによって私もまた古箜篌を知ることが出来た。思うに中古においてもまた、刀鑿によって古の宝器を髣髴させるものを得たことも少なくなかったであろう。当時において李憑は箜篌を弾いて有名であったようで、元稹や楽天と親しかった楊巨源にもまた「李憑が箜篌を弾ずるを聴く」の七絶が二首あって、その中に「名高くして、半ば御筵の前に在り」の句があり、宮廷に仕えていた人であることが分かる。李賀の詩に云う、

呉の糸 蜀の桐 高秋に張る
空山の凝雲(ぎょううん) 頽(くず)れて流れず
江娥は竹に啼き 素女は愁う
李憑 中国に箜篌を弾ず

 第一句と第二句は精巧な楽器を暮秋の空に奏でることを云い、第三句はその涙で竹を斑にした湘夫人と太帝が悲しみのあまり瑟を破って二度と弾んじさせなかったと云う素女の故事を云い、第四句で今李憑が箜篌を弾じだしたことを云う。

崑山(こんざん) 玉(ぎょく)砕けて鳳凰 叫び
芙蓉 露に泣いて 香蘭笑う

 崑山は玉を産する仙山である、上の四字はその音の清く幽玄なことを云い、下三字はその神技で調和することを云う。芙蓉は蓮華である、露に泣くはその音の惨憺たるさまをあらわし、香蘭笑うは音の気高くうるわしいさまをあらわす。譬喩の妙を極めて虚実の境を超える。

十二門前 冷光融けて
二十三糸 紫皇を動かす

 十二門は皇城の一面に三門、四面で十二門であり、ここは九天の上であられる上帝が居られるところを云うと取るべきである。冷光に融けるのでも冷光を融かすのでもない。散文であれば冷光融と云うべきところを、融けた冷光とでも云うような意味で字を置いたので、詩にはよく有る例である。これを強いて和読みして冷光に融けるとか冷光を融かすとか読んでは意味が通じないのである。句の意味は王琦の云うところでは、その音は能く気候を変易する、即ち鄒衍(すうえん)が律を吹いて温気至るという意味であると云う、およそそれでよい。ただ「韓非子」十過篇に出ている「師曠が清徽を奏し元鶴は天から来て舞い、清角を奏し雲来て風至り雨これに随う」に言及しなかったのには物足りない感がある。音楽の妙が、気を通じ物を感じ、天宮に響いて迫ることをこの句は云うのである。二十三糸は箜篌の絃、紫皇は太皇とか玉皇とかいう類で天帝と云うようなこと、前句の十二門は即ち紫皇の宮門である。二句は緊接して緩まない。

女媧 石を煉(ね)りて 天を補いし処
石破れ 天驚き 秋雨を逗(とう)ず

 女媧(じょか)は「淮南子」などに出て来る古い伝説上の聖皇で、五色の石を煉って天を補修したと云わる。石破天驚の四字、幻を絶ち、玄を絶つ、ことに驚の一字は下し得て霊妙である。逗は止であり住である。しかしここでは秋雨を止(とど)めると解釈しては、何の意味にも成らない。これは、逗は投に通ずる、杜甫の詩の句に遠逗錦江波とあるのは、遠く止むのではなくて遠く投ず錦江の波であるようなことである。また「集韵」に、「他候切、音透」とあるのを考えると、逗は透に通ずる。徐彦伯の「南郊賦」の騰逗は即ち「隋書音楽志」の騰透である。音楽志の「忽然騰透して之を換易する」という文の騰透は、我が国の言葉で云うとはね飛ばすと云うようなことである。透の本義は「説文解字」に跳也、過也と出ている。逗秋雨は融冷光の語法の例から云って秋雨逗である。であれば秋雨はしるなどと強いて読むべきか。十二門前以下の四句は、初句の凝雲頽不流からここに至って、音楽が天を動かして、秋雨がにわかに降ってきたことを述べていると云える。もちろん王琦の注の言葉のように、初めは凝雲、中は驟雨、末は明朗な月が天に在る。皆これ一時の実景であるが、詩では箜篌の音がこのようにしたと扱って、景(けしき)のように、情のように、虚のように、実のように、情景虚実を一筆で汲みとったところにその妙があるので、理屈に堕ちていないものである。

夢で神山に入りて 神嫗(しんおう)に教(しめ)す
老魚は波に跳ね 痩蛟(そうこう)は舞う

 神嫗教は神嫗に教えると読んでは通じない。だからと云ってこれを神嫗に教えられると読むのも妙味がない。技を教えるのでも教えられるのでもなく、むしろ教示の教ととって、「のる」とか「しめす」と云うように読んで音楽を聞かす意味にとったほうが、無理はあるが少しは意味が通じよう。旧註で「捜神記」を引用して、「永嘉中、神有りて兗州(だっしゅう)に見(あら)わる、自ら樊道基と称す。嫗有り、成夫人と号す。夫人音楽を好み、能く箜篌を弾ず、人の絃歌するのを聞けば輒(たちま)ち起って舞う。いわゆる神嫗とは疑うらくは此の事を用いるか。また列子に瓠色が琴を鼓すと鳥は舞い魚は躍るとあり、老魚痩蛟は暗にこの事を用いるか」と云う。作者は先ず夢の字を置く、幽渺の言葉は解釈不要である、ただその詩趣を味わうのみである。

呉質 眠らず 桂樹に倚る
露脚 斜に飛びて 寒兎を濕(うる)おう

 寒兎濕は寒兎濕(うる)おうである。寒兎は月のこと、露脚は雨足であって別に深い意味はない。一句は露が落ちて月の冷える夜の大層静かな、清い他には何もない様子を云って、風雅な調べの高い箜篌の曲が終わって、宇宙の浄化されたような趣(おもむき)を云う。ただ前句の呉質は三国の時代にその人は居たが、音楽には関係しないのではと王琦も疑っている。句意を考えると、音楽の音を聞き飽きを忘れて桂樹に倚るとなれば、桂樹を月の中の桂樹だとすると呉質は呉剛ということか、呉剛は月中の高さ五百丈もある桂の木を斫(き)ることを命じられた仙人で、「西陽雑爼」に出て来る古伝中の者である。旧註に引用した劉義慶の箜篌賦の、「器過重于呉君」を今は考証出来ないが、呉剛であれば桂樹に縁があり、寒兎に縁がある。杜甫の詩句の「斫却月中、清光更応多」も呉剛のことを云っている。呉剛も妙音を聞いて眠りも忘れ、桂の木を斫ることも忘れ、広寒の清夜に感嘆としていたと云う詩を作ったのだろう。字を改めて解をつくる無茶な人だとの批判は、私も免れないと承知している。(③につづく)

注解
・李憑:唐の玄宗に仕えた竪琴の名人
・劉熙:中国・後漢末の学者。「釈名」著者。
・空国の侯:?
・瑟:大型の琴。
・杜佑:中国・唐の歴史家。「通典」著者。
・楊升庵:楊慎。中国・明の文人。升庵と名乗る。
・楊巨源:中国・中唐の詩人。
・竹を斑にした湘夫人:中国古代、舜帝の妃湘夫人が舜の死を悲しんで泣いた涙が竹にかかったところ、その竹が斑になったという伝説。
・淮南子:中国・前漢の頃に編纂された思想書。
・集韻:中国・宋代に作られた勅撰の韻書。
・徐彦伯:中国・唐の詩人。
・王琦:中国・清の学者。字は琢崖。
・捜神記:中国・東晋の干宝が著した猿や鳥などの動物や仙人や神様を使って中国の話し言葉を本にした短編小説。
・樊道基:「捜神記」に出て来る永嘉年間に兗州に現れた仙神。
・列子:中国・戦国時代の諸子百家の一人である列禦寇(れつぎょこう)の尊称またはその著書を云う。
・瓠巴:「列子」に出て来る琴の名手。 .
・西陽雑爼:中国・唐代の段成式による随筆。博物学的知識から奇事異談まで様々な内容を扱う。
・劉義慶:中国・南宋の皇族。「世説新語」の撰者。


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