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郷愁のぼろアパート、301号室

こんにちは。
いつも僕のnoteにて、稚拙な文章を読んで頂きありがとうございます。

基本的に僕のnoteでは、自身の精神疾患のことを基にして様々な記事を書いているのですが、今回は自分の昔話のようなものになるのかなと思います。
その中にも精神疾患での体験談もありますので、今回も是非とも最後までお付き合い頂けると幸いです。


以前、クリスマスの時期頃に僕が現在住んでいる家に引っ越す前に住んでいた「ぼろアパート」でのお話しを少し書いたことがあるのですが、この記事でもまたそのぼろアパートでの思い出や記憶などを思うがままに綴ろうかと。

先にお伝えしておくと、この記事は全てを読むにはかなり長いです。
なのでご自身の読みやすいよう、どうぞお好きにご覧下さいませ。

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僕は産まれてからの約17年間をそのぼろアパートにて過ごしました。

この記事を書くにあたり、不動産情報サイトで昔の家をネットで検索すると出てきました。

家の間取りなどを見ていると、改めてよくあの狭い家に4人家族で生活できていたなと思います。

築年数は約40年。
鉄骨造の3階建てのアパートでした。
築年数も多少経っているので、耐震構造などではなかったと思います。

僕の住んでいたのは3階の角部屋、301号室でした。

ちなみに今住んでいる家は7階建てのマンションの3階の部屋なので、僕は3階以上の高さの景色を見慣れていません。

商業施設などの高い階層に上ると、未だに新鮮な気持ちを味わいます。

その部屋からの眺めは良くも悪くも無く、といった感じでした。

今となってはあのベランダからの眺めが懐かしく思い出されます。

ここからはただの思い出話の連続です。知らない人からすれば「知ったことか」となるでしょう。
なのでそういう僕ら家族の話題に特に興味の無い方もいらっしゃるのも当然かと。
次の区切り線までは思い出話がひたすら続きますので、もし精神疾患でのお話しだけでも読んで下さる方は次の区切り線まで飛ばして頂いて構いませんので、どうか悪しからず。



その家はなんと言っても兎に角狭いのです。
簡単に家の間取りをご説明します。

まず玄関を開けると廊下などは無く、いきなり台所のある部屋に入ります。そして、その部屋からは洗面所、その隣にお風呂、そしてトイレがありました。

そして、台所のあるその部屋からガラス戸を開けると6帖程の居間があります。

居間にあるふすまを開けるとまた6帖程の部屋があります。

…………


部屋は以上です。

その広さで当時、4人家族全員で日々生活していました。

自分1人だけの部屋なんてものはありません。

ふすまを開けたところの部屋を2つ歳上の姉と学習机を並べて使っていました。

小学生の頃くらいまでは寝る時はその部屋に布団をそれぞれ一枚ずつ敷いて、並んで寝ていました。

そして父ちゃんは居間に布団を敷いて寝ます。

そうなると、母ちゃんの場所はどうなるかといいますと……。

僕と姉の布団のちょうど真ん中に横になっていました。

いつも「私は布団の隙間の所やけん、毎晩腰が痛い」と母ちゃんはよく嘆いていました。

仮にベッドなんて置いた日には、あの部屋はもう足の置き場すら無くなっていたでしょう。

当時は"ベッド"というものに強い憧れを抱いていたものです。

勿論、ふすまなので部屋に閉じこもることはできません。

母ちゃんに叱られた後、不機嫌なままぶー垂れながらふすまを開けてその勢いでふすまをスパンッ!と閉めると、即座に母ちゃんがふすまを開けて「物に当たりなさんな!」と、またもや怒られます。

ですが、家族それぞれの距離がその分近かったので閉じこもれない環境だったからこそ、僕はその後にも引きこもりのような状態にまではならなかったのだろうと思います。

悪く言えばプライバシーもへったくれもありませんでしたから。

先述した通り、夜は居間で父ちゃんが寝るのですが、いかんせんイビキがすごい人だったのです。
ふすま一枚を隔てて横の部屋にいるとなるとそれもまた毎晩の如く、僕ら姉弟の睡眠時に悩まされるのでした。

姉とは昔から仲が良く、小学校に上がるまでの僕の遊び相手は基本姉ちゃんでした。

同じ町内、近所に同年代の子はいましたが、男の子は僕くらいでした。

僕と姉ちゃんが外で遊ぶ時は家の下のアパートの駐車場でよく遊んでいました。

姉ちゃんはどちらかといえば、いわゆる女の子っぽいお人形遊びやおままごとなどよりも外で活発に遊ぶ子でした。

僕もまた外で遊ぶのが好きな子でした。

近くに公園もあったのですが、何故だか駐車場でボール遊びをよくしました。

ただ、ボール遊びと言っても周りは当然他所の家の車だらけ。

ボールを当てることを避けるため、ガムテープをぐるぐる巻きにしたもので作ったボールと当時福岡ソフトバンクホークスに在籍していた柴原洋選手のサインプリントの入った長さ30cm程の、恐らく本来は飾る用のバットとを使い、野球もどきの遊びをよくしていました。

これだけ見ると平成の子どもがする遊びではないような気もしますね笑

夏は虫網と虫カゴを持って近所を探検。

蝉やらなんやらを捕まえてはとりあえずカゴに入れて、蝉の抜け殻を見つけてはお互いの洋服の背中にくっつけ合ってはしゃいでいました。

同じく夏場、そのぼろアパートには少し離れた所にあった竹林からよくカブトムシが飛んできたりしていました。

夏休みは朝起きると毎日、どこかにカブトムシはいないかと各階を見て回るのです。

何回かはカブトムシを捕まえて、カゴに腐葉土とゼリーを買ってきて入れて、飼育していました。


姉ちゃんとは仲は良かったものの、その分姉弟喧嘩もよくしました。

その原因の大半は些細なことです。

何時から外で遊ぼうよ、と僕が姉ちゃんに提案というよりもお願いをするのですが、姉ちゃんはひどく気分屋な人なのでその時間になっても姉ちゃんの気分が乗らなければ外で約束通り遊んではくれません。
「何時から下で遊ぶって言ったやん!」と僕が反論をしようとも「知らんもん」の一点張り。

僕は腕より口が立つ方だったのですが、姉ちゃんは口喧嘩では僕には勝てず、それにムカっとした姉ちゃんからその分僕はよく蹴りを喰らっていました。

これもまた我が家のルールで、喧嘩をしても手を使って殴ったり叩いたりするのは禁止でした。
蹴りも流石に顔などには決して当てず、蹴るならお尻を狙いなさいと言われていました。

一度、母ちゃんが夜に町内の父母会の集まりで出掛けていて、その際に僕たちは喧嘩をしてしまい、僕も珍しく新聞紙で作った棒で善戦したものの結局は姉ちゃんには敵わずその時引きずり回された勢いでふすまに穴を空けてしまい、その後帰ってきた母ちゃんから2人してこっぴどく怒られました。

喧嘩で騒いで母ちゃんから怒られる時は、お叱りを受けるのはどちらか一方ではなく大抵は喧嘩両成敗方式でした。

その時は姉ちゃんと僕は、一発ずつビンタを喰らいました。

母ちゃんが叱るのに手をあげたのはその時一回くらいでした。

父ちゃんは基本怒らない人だったので、何となく父ちゃんと母ちゃんでバランスを取ってくれていたのかもしれません。


またとある日、冬の雪の積もる日には家の下の駐車場に2人して勢いよく駆け出し、我が家の車に積もった雪をかき集めて雪合戦やら雪だるま作りをしたものです。

悴んだ(かじかんだ)手で部屋に戻り、ヒーターの前にかざして温めた記憶があります。


思い出語りはこの程度にしておきます。
これ以上書くにも、あまりにキリがありませんので。

それくらい思い出の詰まった家でした。

僕が高校3年に上がる前くらいの頃に今の家に引っ越します。

その引っ越す頃には僕は学校にはほとんど通えないようになっていました。

剣道部の稽古に僕は1人だけ思うようについていけず稽古の途中で何度も抜けてしまい、それが引き金となり部活に行けなくなり、それがまた部の皆んなに申し訳無く、合わせる顔が無い気がしてならず次第に学校自体から足が遠のいてしまいました。

その頃も部屋は変わらず、ふすまの奥の部屋にいました。

これは福岡だけの教育方針なのかもしれませんが、朝に「朝課外」という0時限目のようなものが基本的に毎日行われるので、朝7時半頃には学校に到着していないといけませんでした。

その頃は碌に夜も眠れず、ふすまの奥で布団に横たわり毛布にくるまってひたすら自問自答を繰り返すのでした。

「なんでこんなに学校に行くのが辛いのだろう」

当時はいくら考えれどその答えは出ませんでした。
その後に心療内科を受診することで自分はパニック障害と不眠症であると告げられてようやく原因に近づきそれを知るのですが、その頃は僕を含めた家族の誰も、学校のどの先生も、担任の先生にも僕が学校に通えないはっきりとした原因が分からず、単に不登校気味の生徒となっていました。

ふすまを閉めて、カーテンも閉めて一切の光も部屋に入れずただただ布団で横になり過ごすのでした。

時に、夜に翌日学校にいくための鞄の準備をして、母に「明日は学校行く」と告げてから寝ようとするのですが、眠れない。
そして翌朝結局母に「行ききらん」と一言伝えてまた布団に戻り布団の中でひっそりと涙で枕を濡らすのでした。

その頃は食欲も無く、殆ど食事を摂ることが出来ませんでした。

母も、どうにか何かを食べさせなければと色々と試行錯誤したそうです。

これは僕は覚えていなかったのですが、そんなある日に母はたまたま移動販売の焼き鳥を見つけ、焼き鳥を僕に買ってきてくれたそうです。

全くと言っていいほど何も食べられない日が続いていましたが、僕はその焼き鳥の入った袋を手にとってようやくものを食べたそうです。

この頃の記憶は自分の中ではすごく曖昧、もしくは全然覚えていないのです。

姉は昔のことを事細かに憶えている人だったのに対し、僕は記憶力があまり良くない方なのだろうと思っていましたが、どうやらその頃のことには記憶に蓋をしているようです。
先日母からこの記事を書こうとその時のことを色々と聴きましたが、僕には一切覚えが無いのです。

母いわく「あの頃のことはひろきの中で辛い記憶になっていて、それを思い出すのもしんどくて記憶に蓋をしとるんやない?」と。

言われてみれば確かにそうなのかもしれません。

自分が不登校だったということ、行かないといけないとわかっているのになんでこんなにも学校に行きたくない気持ちが生まれるのかと、自分を責めていた気がします。

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あの301号室には今は誰か他の人が住んでいるのだろうか。

楽しかったことだけでなく、苦しかったことも含めて、もう戻るにも戻れない過去の記憶の断片。

あの時、確かに僕はあの部屋の存在していました。

どう思い出そうとしても、郷愁の念に駆られて仕方ありません。
様々な想いが込み上げてきます。

地震が来ると建物自体にヒビが入るし、部屋の天井は撓んで(たわんで)下がってくるし、部屋の四方の角の壁紙は貼り方が甘くて破れていたし。

とにかくぼろくて、そして狭くて。

ただあのぼろアパート住まいの時期は僕の人生の長い期間を占めています。

僕の人生を語る上であのアパートの301号室は欠かせないものです。

狭い家と部屋でしたが、家族皆んなの心はその分、広かった気がします。

そう思うと、僕はあの頃、あの家、あの部屋に感謝をせずにはいられないのです。

あの301号室からのありきたりな眺めは、今思えばこそあの時限りの特別な景色だったのです。

あの家で培った様々な経験は、間違いなく僕の人生の肥やしとなってくれています。

友達を家に呼ぶのも躊躇った時もあった。

狭い家を恥ずかしく思ったこともあった。

友達の広い家を何度も羨んだことがあった。

足の伸ばせるお風呂に入りたかった。

今の家も追い焚きは無く、足も伸ばせるほどではありません。

憧れはいくらでもありましたが今となれば全てあの家での暮らしは僕の誇り。

僕を形造った、一つのピース。

完全までに欠かせない大切なピースの一つ。


ひろき

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