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Glad I heard
このごろ日常に興味がある。
日常と言ってもいろいろあるだろう。その言葉の意味には幅があり奥行きがある。
日常について日常的に考えているわけではないけれど、ときおり頭にそのことが浮かんで、あれこれ考えている。
どういう日常かというと、まず映画の中の登場人物の日常だと言えそうだ。
このごろ映画を観る。たくさんではないけれど。
『アデル、ブルーは熱い色』『葛城事件』『その夜の侍』『永い言い訳』…。こ
深夜・版画・自己肯定
今日も夜が更けた。部屋を出て街へ行けば、信号と街灯が夜道を照らし、ひっそりとした空間が広がっているはずだ。
夜が更けたのは版画を彫っていたからだ。版画を彫っていたのは本を読む作業に集中できなかったからだ。本を読む作業に集中できなかったのはスピッツを聴いていたからだ。スピッツを聴いていたのはご飯を食べてぼんやりしていたからだ。ご飯を食べたのはどうしても勉強がはかどらず部屋に戻ってきたからだ。今日も
汲み取れているだろうか
(周りくどいある場面にて…)
目の前に誰かいるとき、少なくともその人のことを理解しようとするために、その人についてとらえようと努力する場合が、なくはないだろう。
目の前の誰かというのは、まず文字通り眼前の誰かということもあるだろうし、あるいはそこには居合わせていない誰かであったり、想像上のだれかであったりするかもしれない。
(誰かという「人」でなくても、「物」でもいいかもしれない。でも、とりあえ
そしてまた自分はまわりくどく、夜は更けていく
その人がいない場面で、その人との関わりによっていかに自分が嫌な気持ちになったりいかに不快と感じたりしたのかを、誰か他の人に話すことは、少なくないかもしれない。
誤解をおそれずに言えば、目の前にいない人の悪口を言うことである。
こういうことをしたとき、何らかの罪悪感にさいなまれることになる。
何をやっているんだろうか自分は、と。
そしてまた落ち込む。
もちろん、時と場合によってはその限りではない
つきまとう余剰の感覚
大きなスプーンですくいきれない瓶の底のジャム
歯に挟まった屋台の焼きとうもろこし
汗と気持ちだけが先走るランニング
集中力が途切れてツルツルと目が滑る本の上
常につきまとう不足の感覚
自分では広げられない誰かの世界が今日も咲いている
机の上の一輪の花を眺めて
水やりの足音に耳をすます