匂いの引き出し
「きんもくせいの匂いはお祭りの季節!」
道に漂うきんもくせいの匂いから、ふと、
そういえばそういう事について高校の時代クラスメイトが楽し気に言葉にしていたことを、僕は思い出した。
秋が近づく9月の終り頃だったと思う。夏の気配は過ぎ去り、蝉の鳴く声もいつの間にか聞こえなくなっていた。教室では窓から入るそよ風が心地よく、陽射しに照らされたワイシャツは夏に比べるとどこか落ち着いた白色をにじませていた。
通っていた高校では「情報」の授業を受けることになっていて、僕はパソコンの基本的な操作方法から、ワードやエクセルの基本的な使い方までを学んだ。教室は校舎の3階にあり、自分たちの教室と向かい側の建物に位置していたので、いつも青空廊下と呼ばれる屋外の通路を通って教室へ向かっていた。
あるときの授業で、プレゼンテーションの課題が出された。ひとりひとり、何かテーマを決めて15分くらいで発表するというものだ。クラスメイトのひとりであるKくんが、どうやら「きんもくせいとお祭り」をテーマにプレゼンテーションをおこなうようだというウワサが、どこからともなく僕の元へまわってきていた。
Kくんというのはサッカー部に所属していた短髪で背の高い人である。とても気さくで、素直で、裏表がなく、いつもこだわりなく皆に話しかけているように見えた。くだらないジョークでさえ、いつも周りを明るい雰囲気にしていた。ウワサが広まっていたのは、たぶん彼の人となりによるものだろうと僕は推測した。そうしたウワサを話の種にして、休み時間には彼の楽しそうな笑い声が聞こえていた。
発表当日、Kくんの出番が回ってきた。彼が発表で最初に言葉が「きんもくせいの匂いはお祭りの季節!」だった。
その言葉を発した直後、教室は静まり返った。しかし、しばらくするとどこからともなく笑いがこぼれ、全体が穏やかな笑いに包まれた。Kくんは満足そうな笑みを浮かべ、意気揚々と発表を続ける…。
そのあとどんな話をしたのか僕は覚えていない。
いまはもう連絡を取ることはない。もともと個人的に遊んだりもせず、クラスメイト以上でも以下でもないというような関係だったと思う。でも、彼には話しかけやすい雰囲気があり、手洗い場などで出くわしたときに、普段は物静かな自分が何かボソッと冗談を口にしても、良いねいいねと常に肯定してくれた場面を僕は記憶している。
蝉の鳴き声がいつの間にか止んだように、今年もまたどこからともなくきんもくせいの香りが漂う季節が過ぎようとしている。そのたびに僕は彼の楽し気なあの言葉を思い出す。そして彼が秋祭りに参加していたとしたら、どんな風になっているんだろうと思いをめぐらせる。
だからといって手紙を出すわけでもなく、ただ思い浮かべるだけなのだけど。
…
こんな風にして誰かのことやいつかの景色を、何かの匂いをきっかけにしてふと思い浮かべることが、ときおりある。
そういう記憶は、風や木や雨や食べ物やコンクリートやお線香が知っていて、自分から訪ねていくことはできない。
いつかふと思い出す日が来るまで、たぶん忘れたままの自分の記憶は、目には見えず聞こえないかもしれないけども、もしかしたらすぐ隣にあるかもしれず、そんな些細な思い出の一撃でその日が終わってしまうこともあるのだと考えると、すこしだけ恐ろしい気がしないでもない。
自分の記憶であるようで、自分では思い出せない、そういうたぐいの記憶についての地図を、今日も探していた。
学校からの帰り道、夜の気温に冷えた風が、昼間の暑さのために用意した薄着に肌寒かった。
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