akisan

大学院で北朝鮮の政治を研究しています。趣味はディスカッションを作ることです。

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最近の記事

エアチャイナ日本帰国タイムアタックー「社会主義核心価値観」と5年ぶりの邂逅ー

2024年8月15日(木) モンゴル・ウランバートル空港から飛び立ったエアチャイナの飛行機はゴビ砂漠と思われる不毛地帯を抜け、無事、東京・羽田への経由先であった北京首都国際空港に着陸した。少し長めの休みを取り、友人たちとのモンゴル旅行を満喫した私はいよいよ羽田に帰国しようとしていた。 着陸後、国際線乗り換え口に向かおうとしたところ、「キャンセル」の文字が目に飛び込んできた。「かわいそうに」と思ったのも束の間、それは私自身が搭乗予定の飛行機であった。三秒前の自分自身が恨めし

    • 8月は青春と朱夏のグラデーション

      8月が終わろうとしている。8月は少し長めの休暇を取り、友人とモンゴルへ旅行をしてきた。初めての訪問である。また私にとっては四年半ぶりの海外であった。 一面の草原に丘が点在する独特な地形を目の前にすると、日本ではないことを実感した。 モンゴルは社会主義から資本主義へと転換して30年ほどになる。中国とロシアに囲まれた中央アジアの雄は成熟へと向かう最中にある。 かつて騎馬の力で世界を席巻し広大な版図を作り出した元はヨーロッパとアジアをつなぎ、「世界史」を作り出したとも言われる

      • 「選択肢がない」という幸せについて

        ときおり「北朝鮮に暮らす人は幸せなんでしょうか」と聞かれる。とりあえず「幸せの感じ方は人それぞれですから」と答える。答えになっているのかいないのかよくわからない。 質問をくれた人は「それはそうですよね」と納得したようなしないような表情で去っていく。情報が統制された謎の国で暮らす人が何に喜び、何に悲しみ、何に希望を持って生きていくのか。私を含む多くの人が疑問に思い、興味を抱き、野次馬根性を持つ。 そこには自分たちよりも不幸な人を「発見」したいという極めて人間くさい態度がある

        • 「見栄」と「正しさ」の狭間で、過去を肯定して生きていく。

          明日27歳の誕生日を迎える。これまで誕生日の当日にnoteを書くことが多かった。今年は前日に書いている。明日が平日なので執筆の時間が取れないことが予想されるからだ。私が一介の労働者であることから導出される必然的帰結である。 *** noteで自分が誕生日を迎えることをわざわざ喧伝しているのは、読者から「おめでとう」をカツアゲするためだ。これは私に限った話ではない。最近では誕生日当日が終わりそうなタイミングで「たくさんのおめでとうの言葉ありがとうございました!」とSNSに投

        エアチャイナ日本帰国タイムアタックー「社会主義核心価値観」と5年ぶりの邂逅ー

          ボクらはずっと続けているし、ずっと止めている

          2024年5月が終わろうとしている。今月noteを更新すると24ヶ月連続となるらしい。続けることにはさまざまなグラデーションがある。毎日更新することを続けると呼ぶ人もいれば、1週間に1回更新することを続けると呼ぶ人もいる。1ヶ月に1回だって1年に1回だって、続けるってことに違いない。変化する自分のペースを自分で許すってことが「続ける」ってことなんだ。別に毎日やらなくても毎週やらなくても。人生の時間はずっとそれをやっていないことの方が長い。だから僕らはずっとやめているし、ずっと

          ボクらはずっと続けているし、ずっと止めている

          少しだけ離れた場所から東京をながめる

          東京に住んで2年半になる。今住んでいるのは職場にも大学にも近い一石二鳥な場所だ。とても便利だ。しばらくは東京に住もうと思っている。 それでもこの都市に自分の望ましい生が開かれているのかと言われれば、確信は持てない。特に誰かと時間を気にせずに気軽に座って話せる場所がない、というのが致命的だ。 「排除ベンチ」に象徴されるように、都市では治安維持の大義名分のために人が座る場所が排除されてきた。 結局、大衆カフェがその受け皿となった結果、休日になると混みまくっている。しかも狭い

          少しだけ離れた場所から東京をながめる

          バカな自分を許してこれからもバカのまま

          2024年2月から仕事に復帰した。七ヶ月ぶりに働いてみると実感する。人と人のつながりが社会を作り出しているのだと。 ビジネスの現場では、「あの人は大学時代の先輩だった」とか「ゼミで同じだった」とかで情報収集がスイスイ進む場面をよく見かける。 自らの過去は現在の自分の資源となる。会社の中で自分の目標を達成するために、自らのつながりを(常識の範囲内で)動員することは奨励される。だから「シマッタ。大学時代に交友関係を広げておけばよかった」と思わないわけではない。 ただ大学時代

          バカな自分を許してこれからもバカのまま

          沈黙が正解の世界で

          黙っておくことが正解な世の中だとつくづく感じる。日々変わりゆく「ポリコレ」の基準に適応し続けることなど不可能で、いつどこに地雷が埋まっているのかわからない。 可視化された承認欲求を追い求めることは禁断の果実だ。デジタルな発言はタトゥー化し、私たちを永遠のヤンキーにさせる。地雷を踏めば最後、右左から縦横無尽に矢が打ち込まれてしまう。だからみんな「猫かわいい」くらいしか言えなくなる。 黙っておくことが一番よい。沈黙は金。雄弁は銀。地雷原には近づかないでおこう。素晴らしいアドバ

          沈黙が正解の世界で

          悲しくても「これも勉強」と開き直るのだ

          生きていれば悲しいことがそれなりにある。具体的な出来事に反応した悲しみもあれば、なんとなく抽象的な悲しさもある。 さまざまな種類の悲しみを私は「これも勉強」と開き直ることで乗り越えてきた。その開き直りは悲しみの中に前向きな要素を見つけ出そうとする必死のあがきである。虚勢マシマシである。滑稽だ。滑稽だ。今回の文章もだいたい冗談である。 今週の月曜日から木曜日にかけて韓国の一人旅に出かける予定であった。その前の水曜日にはルンルンで銀座のニューエラに入店し、耳までモフモフの暖か

          悲しくても「これも勉強」と開き直るのだ

          【超短編】アジア国に魅せられて 1/1

          就活は気の進まない儀式であった。梅雨の湿気でジメジメした大手町にリクルートスーツで歩く行為そのものをなるべく避けたかった。 人事担当者の「やりたいことは何ですか」といった問いかけに対し、私を含む学生陣は貧弱な応答しか持ち合わせないことを見抜いていた。 しかし私が私の中にあるはずの「やりたいこと」を的確にえぐりだす手段や資源を持ち合わせぬことも確かであった。 シニカルな自分である。就活を通じて、このことに正面から向き合わねばならぬことは想像以上のストレスであった。 当然

          【超短編】アジア国に魅せられて 1/1

          新年の辞

          明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。さっそく震災と航空機事故が立て続けに発生し、少なからぬ衝撃を受けました。自分の人生とそれらがどのように関連するのかもわからぬまま、情報獲得に躍起になり、精神衛生を乱しました。難しいものです。 一年の計は元旦にあり。多くの人が目標や計画を立てるお正月にこのような震災が起こることの皮肉さも痛感しました。自分ではどうしようもない偶然性に左右されながら形成される精神性こそ、この日本の<伝統>なのではないか。そんな

          新年の辞

          北朝鮮政治修論執筆大反省大会

          2023年12月8日に修士論文を提出した。この記事では修士論文の提出に曲がりなりにも成功した大学院生の「お気持ち」に依拠しながら、修論執筆を振り返ることにする。 *** 私は2021年4月に大学院に入学した。しかし研究室に北朝鮮の内政を研究する学生がいないことを知った。困ったものだと思いながら、履修登録を済ませた。 修士一年は授業を中心とせざるを得ず、労働をする必要もあったため、自らの研究に目立った成果はなかった。ただ研究に進捗が生まれない大きな要因は卒業論文で取り組ん

          北朝鮮政治修論執筆大反省大会

          論文と気ままな備忘録の狭間より

          現在は来月提出の修士論文の作成に追われている。しかしこのプラットフォームの運営は「11月30日までに記事を書け」とお構いなく急かしてくる。 11月30日までに記事を投稿すると18ヶ月連続となるらしい。何であれ続けることは素晴らしいことだ。そんな私の信念に漬け込んだ素晴らしいリマインドである。 そのリマインドは気ままに文章を書く感覚を思い出させた。日々の経験に反応しながら書くことを楽しみたい、と思う。 学術的な研究をしていると偶発性や内発性をしばしば忘れてしまうことがある

          論文と気ままな備忘録の狭間より

          友だちとの「深い話」はどうすればできる?

          ある友人と代官山の蔦屋書店でおしゃべりをしていた。私にも代官山に入れる権利くらいはあるようだ。 その友人は「友だちとの『深い話』ってどうすればできるんですかね」と言った。 なるほど。「深い話」ができるほどの友人関係は自分の生を輝かせる偉大な人間関係に違いない。 彼は「『深い』話を通じて、友人と『深く』つながりたい」と願った。これは私のようなシニカルな人間すら抱く、ごく自然な感情であると思う。 では友だちとの「深い話」はどのようにすればできるのだろうか。 *** 「

          友だちとの「深い話」はどうすればできる?

          私たちは「合理的」になぜ魅了されるのか?

          合理的であることに対して批判的な文化人が増えてきたように思う。人間は弱い存在でしばしば感情に基づいて行動する。だから過度な合理性の追求には意味がない。そんな批判だ。 またそこではしばしば「つながり」や「アート」といったものが称揚される。それらは「合理的」へのアンチツールとなっている。「一見無駄に見えるけど実は大切なこと」が文化人の心の拠り所になっているのだ。 それでもやはり私たちは合理的であることから離れることができない。しばしば何か自分と意図しない行動や目的に合致しない

          私たちは「合理的」になぜ魅了されるのか?

          「とにかく行動しろ!」と言う前に

          これまで自分自身の日常の中で自明として受け入れていたことについて、ふと立ち止まって考えてみようとする時がある。それは友人が何気なくつぶやいたことをきっかけとするかもしれない。もしかしたら何かの書籍に問われることによってかもしれない。 そのような時に自分なりの思考を進めることができるか否かはおそらく人生の展開に大きな影響を及ぼす。なぜならば、思考を進めることそれ自体が自らを肯定することにつながるからだ。 しかし、ひとつまみの勇気で思考を進める他者を見て、私たちは「こじらせて

          「とにかく行動しろ!」と言う前に