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【超短編】アジア国に魅せられて 1/1

就活は気の進まない儀式であった。梅雨の湿気でジメジメした大手町にリクルートスーツで歩く行為そのものをなるべく避けたかった。

人事担当者の「やりたいことは何ですか」といった問いかけに対し、私を含む学生陣は貧弱な応答しか持ち合わせないことを見抜いていた。

しかし私が私の中にあるはずの「やりたいこと」を的確にえぐりだす手段や資源を持ち合わせぬことも確かであった。

シニカルな自分である。就活を通じて、このことに正面から向き合わねばならぬことは想像以上のストレスであった。

当然のごとく就活をいかにコスパよくやり過ごすかだけを考えるようにした。いくつかの就活サイトに登録しても本当の自分は見つからなかった。

中学時代のとある同級生は「中学を卒業したら自殺するのだ」と叫んでいた。彼は今どこで何をしているのだろうか。今では非常に気になる。結局彼は自殺をしなかったはずである。

大学では政治学部に所属していた。「幅広い分野を学べそうだから」といったぼんやりとした理由がその学部の人気を支えていた。

三年生になるとゼミに入らなくてはならない。私は公共政策学のゼミに所属していた。しかしゼミに何を求めようとするのか。私にはよくわからなかった。

とある同級生は「就活のため」と澄ました顔でイキっていた。ゼミと就活がどのようにつながるのか。私には皆目検討がつかなかった。

結局私は自らの所属に対して得心のいかない状態で20歳を迎えてしまった。アイデンティティとは何なのであろうか。

ゼミの教授は元官僚であったらしい。昨今では教授のバックグラウンドにもさまざまあるようである。

その教授からメールが届いた。「来週までに卒論のテーマを私に送ってください」特に学問的なこともしておらず、ぼんやりと行くあてもなく過ごしていた自分にどんな学問ができると言うのだろう。

Googleスカラーは「巨人の肩の上に立つ」というけれど、肩の上に立つにも相当な修練が必要なのではないか。「卒業論文を書け」といった要請はどこか遠くの世界で行われているように感じた。

ただ卒業しなければ親にも申し訳が立たない。卒業論文は書かねばならない。しかしその一歩目がわからない。自分は何をするために何をするのだろうか。

卒業論文の作成と就職活動の実施。どちらも私にとってひどく自傷的な行為だった。逃れたい現実を逃れたい現実で覆い隠そうとする滑稽さがそこにはあった。

しかし、自分がたしかに存在していることを証明するために自傷的であることもまた一つの手段だと半ば開き直った。このような正当化をするほど私はあまりに凡庸な時間を過ごしていた。

新聞を眺めていると小さな見出しが目に入った。「アジア国、14度目の核実験の準備完了。日米韓の連携強化へ」

それは年頭より実施可能性が叫ばれていたアジア国による核実験の可能性を知らせる小さな記事だった。

アジア国はかつて日本国の植民地であった。激しい独立運動の果てに現在は建国者の息子が統治をしている。

米国とは対立しており、その背後に存在する中華国の支援を受けながらかろうじて存続しているような極東の小国である。

私はアジア国が核実験をすることそれ自体はなんとなく小耳に挟んでいた。しかし、なぜそのような行為に出るのかわかりかねていた。

3ちゃんねる上でアジア国は嘲笑の対象であった。ミサイルを発射するたびに最高指導者のコラ画像が大量にインターネット上に散布されていた。

私自身もSNSでその画像をシェアするなど消費するものとしてアジア国を楽しんでいた。

しかし、現実に存在するアジア国とインターネット上の玩具にされているアジア国は私の頭の中では結びつけえぬ事柄であった。

両者を同一なものと認識しようとする時、思考を十分スムーズに進めることができなくなるのだ。アジア国を見つめようとする姿勢自体が現実から遊離していたのである。

真実としてのアジア国はどこにあるのであろうか。ふとそのような疑問が浮かんだ。しかし、その次には就職活動の面接の日程調整をする必要性に駆られていた。

目を挙げてみるとそこは自室であった。自室であったとわざわざ強調するのは、そこには惨めな日常が横たわっていたからである。

横たわる日常からは悔しさといった感情は当然湧き出ない。このていたらくでは私の人生の上がり目はきっと存在しないだろう。

そう考えながら私はまた3ちゃんねるを開くのである。

明日には卒論のテーマを出さなくてはならない。

完。

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