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少しだけ離れた場所から東京をながめる

東京に住んで2年半になる。今住んでいるのは職場にも大学にも近い一石二鳥な場所だ。とても便利だ。しばらくは東京に住もうと思っている。

それでもこの都市に自分の望ましい生が開かれているのかと言われれば、確信は持てない。特に誰かと時間を気にせずに気軽に座って話せる場所がない、というのが致命的だ。

「排除ベンチ」に象徴されるように、都市では治安維持の大義名分のために人が座る場所が排除されてきた。

結局、大衆カフェがその受け皿となった結果、休日になると混みまくっている。しかも狭い。最近、桜の時期に中目黒のスタバが2000組待ちになったと聞いた。ある意味、象徴的な出来事だと思う。

コロナの時期にカフェの席が一つ飛ばしに座っていたのが懐かしい。コロナは懲り懲りだが、ソーシャルディスタンスはあながち悪くなかった。

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東京に問題意識があるのなら、地方に行けばよい。そんな意見もありうる。もちろん一つの選択肢ではある。ただ地方でも都心でもない埼玉の街で生まれ育った私は地方で暮らすことをリアルを持って理解することができない。

さまざまな事情から地縁と血縁が解体されている私にとって、どこに行っても「地元」はない。だから誰でもとりあえず受け入れてくれる東京に向き合う必要がある、と現時点では思っている。

東京は欲望と嫉妬をエネルギー源としてスクスク育ってきた巨大都市だ。その中で暮らすことは都市が設定する評価軸を受け入れることを意味する。

東京はよくも悪くもお金があればなんでもできる街だ。お金があることがとても大事な評価軸になる。でなければ東京のアイデンティティが揺らぐ。

「金があるかどうか」。この、誰にとってもそれなりに普遍的な価値観から逃れることは難しい。他人とは違う、自分らしい生を望みながら、その実現までのコストは払おうとしないのは私を含む人間の性だ。

都市が設定した評価軸に従順になることは個人個人が持っている評価軸を一度放置することだ。優先度を一旦逆転させることだ。そうして東京でのつつましい生活が約束される。

このことをむやみに否定してきた言論もあるかもしれない。けれどもこの不確実な時代にせめてもの安定を目指そうとする姿勢のどこを否定することができるのだろうか。生きる知恵だ。

だから私は都市が設定した評価軸に踊らされるのを百歩譲って受け入れてもよい、と思う。それに踊らされていることを受け入れることで「都市か地方か」のような、食傷気味の二者択一から逃れることができる、と思う。

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自分は自分を捨てながら、他人のステージの上で踊っている。このことを知ることだ。自分に帰る場所はない。だから東京を考察するほかない。そうして生きやすさを小さく見つけよう。

ただそれは東京を糾弾し地方に移住することを決め込んでしまう急進的なやり方ではない。別の回路を見つけること。それは自分に東京を手繰り寄せるようなやり方である。

座ってゆっくり話すこと。できれば自分が探求したいと思う問いを抱えて話すこと。それもぼんやりと東京の輪郭が見えるようなところで。すると東京に対して自分で何を埋めこんでいけばよいのかが少しずつわかってくるのかもしれない。

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