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私たちは「合理的」になぜ魅了されるのか?

合理的であることに対して批判的な文化人が増えてきたように思う。人間は弱い存在でしばしば感情に基づいて行動する。だから過度な合理性の追求には意味がない。そんな批判だ。

またそこではしばしば「つながり」や「アート」といったものが称揚される。それらは「合理的」へのアンチツールとなっている。「一見無駄に見えるけど実は大切なこと」が文化人の心の拠り所になっているのだ。

それでもやはり私たちは合理的であることから離れることができない。しばしば何か自分と意図しない行動や目的に合致しない行動をしてしまった時、私たちは「しまった。なんてバカなんだ…」と自分を責める。

この時、私たちは自らを叱責すると同時に合理的であることを賞賛している。合理的であることの何がそんなに私たちを惹きつけるのだろうか。

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「合理的」には魔性の魅力がある。そこにはある種の洗練さを見ることができるからだ。何かを洗練することは無駄と思われることを削ぎ落とすことである。換言すれば、それはスマートにすることを意味する。例えば、友人の結婚式に大きな荷物を持っていくことは「スマート」じゃない。

洗練は、その場にふさわしい身体の使い方に自分の身体を適応させることでもある。友人の結婚式に、ほふく前進で登場するのは「スマート」じゃない。これはある種のサプライズである。

以上のように合理的とは理を実現するために、無駄を減らすこと、すなわち自らが操作するパラメーターをできるだけ少なくすることである。「スマートデバイス」の登場はその実現を早くした。

例えば、スマートウォッチやスマートフォンといった個人単位で持つデバイスによって個人は意思決定の機会を減少させることができる。自らの一日の活動量が自動で計測されていたり、最新のニュースを自動で通知してもらったりできる。

スマートデバイスの登場によって個人が判断しなければならない量は減少した。これによって暮らしは「わかりやすく」なった。

しかし、スマートさはそれぞれのデバイスが存在するだけではその真の効用を発揮しない。その裏側にはプロダクト間のロジスティクスが必要である。

しかし、そのシステムを支えるスマートさはプロダクトのそれぞれに対応するものではない。スマートさとは個別のプロダクトの性能に対応するのではなく、そうしたプロダクトが関係する需要と供給の連鎖に、つまりロジスティクスに対応する概念なのである。(戸谷2022:151頁)

「Amazon Prime」のロジスティクスに私もしばしば驚嘆する。しかし、「Amazon Prime」はMacbookのみが存在する中では利用することはできない。その裏側に茫漠と広がる魔法のようなシステムが必要なのだ。

そのようなスマートなシステムはさまざまなものを隠す。人はシステムを利用することで自らが見たくないもの・接したくないものを隠しておくことができるのである。

「Amazon Prime」の裏側には、倉庫や提携先の運送会社などで働く膨大なアクターが存在している。システムのおかげで私たちはこれらを意識しなくて済んでいるのである。

私は「意識しなくて済んでいること」への倫理的な是非を問うことには関心がない。しかし、私は自分たちが何を見たくないと思っているのかには関心がある。システムの裏側をのぞくことは自分たちの「性癖」を知ることでもある。

2023年7月に私はニワトリを解体するワークショップに参加した。(サムネ画像のそれである)目の前でニワトリをシバく時、私たちは日常生活の中で自分が隠しているものを明らかにすることができる。

そこで私は殺生という「不徳」な行為を誰かに押し付けたいエゴをのぞき込んだ。それはスーパーマーケットに整然と豊かに並ぶニワトリの裏側にあるシステムの一端を担う経験でもあった。

私たちはシステムによって何かを隠すことができる。合理的の魅力はここにある。スマートなシステムは魔法である。合理的であることの成れの果てだ。

しかし、その存在は暮らしの中での洗練さを追求した結果に過ぎない。そこにはある種の傲慢さと善良さが共存している。

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私は合理性に魅力を覚える態度を批判したいわけではない。そんなことをすれば、それは自家撞着である。私も多くのApple製品で暮らしをガチガチにスマートにしているからだ。

ゆえに私は、システムを解体し、原始時代への回帰を促すわけでも、「アート」や「つながり」が大事だといった食傷気味の提案をするつもりもない。

ただ、私たちは普段システムの中に隠しているものについてのぞき込む経験をしてみても面白いのではないかといったゆるやかな提案はしてみたい。

これは何かソーシャルな問題意識に基づく意見ではない。「命のありがたさを〜」などといった感想はもうみんな聞き飽きただろう。

合理的であろうとする中で、私たちは何を隠そうとしているのだろうか。何を得て、何を失っているのだろうか。それを知ることはただ単に非常に興味深いことなのだ。そこにあるのは純な好奇心である。

それ以上でもそれ以下でもない。

完。

【参考図書】


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