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ボクらはずっと続けているし、ずっと止めている

2024年5月が終わろうとしている。今月noteを更新すると24ヶ月連続となるらしい。続けることにはさまざまなグラデーションがある。毎日更新することを続けると呼ぶ人もいれば、1週間に1回更新することを続けると呼ぶ人もいる。1ヶ月に1回だって1年に1回だって、続けるってことに違いない。変化する自分のペースを自分で許すってことが「続ける」ってことなんだ。別に毎日やらなくても毎週やらなくても。人生の時間はずっとそれをやっていないことの方が長い。だから僕らはずっとやめているし、ずっと続けている。

世の中、結局グラデーションだ。明確な因果関係を結ぶことができることなんてない。それでもゆるいつながりとゆるい分断があちらこちらに存在していて、それが生きることの面白いことを占めているような気がする。久しぶりに気分転換をしたくなって、今日はとある都内のホテルに来た。金曜日の夜、スカイツリーを眺めることができる港区のホテルの一室で私はこの怪文を書いている。私らしい人生だ、と思う。気分転換が日常から完全に切り離されることはない。そのまた逆も然り。よい日常があってこそ、よい気分転換が存在する。

5月は忙しかった。自分の担務は仕事からプライベートに至るまで色々と拡大している。放り込まれた環境次第で、人間なんて簡単に変わってしまう。個性なんていらないね。それは素晴らしいことだ。本当に大切なことなど幻想で、自分ができることを増やすためのゲームをこなしながら、そこに少しの遊び心さえあればいいんだ、と思う。その姿勢と奇妙に共鳴する人と友だちになるだろう。

自分を見失うことへの誘惑はとてつもなく大きいのだけれど、徹底的に自分である、ということ。そのためには思考と行動を切り分けて両立させることだ。一生懸命考え抜くことと、とりあえず行動することってのは別に二律背反じゃない。二項対立、敵と味方に分類することの魅力。嗚呼、なんて大きいのだろう。

スタンス。スタンス。自分が設定した立場から自動的に導出される自分の意見。ここで冷蔵庫の中にあるビールを取って飲んだ。とりあえず走っている。走れる時だから走っている。走りたいから走っているわけではない。別にいつでも歩いていいのだけれど、走れる時に走っておくというのは、走り始めてしまったからだ。別にそれでいいのだ。僕らはいつでも歩けるし、木陰で休むこともできる。選択肢の中の一つを選択しているだけだ。そこに熱狂はいらない。自分の大切なことは外的な衝撃が決めてくれることもある。

これまでババっと最近考えていることを書いた。とにかく「お前はこんな奴なんだ」と決めつけることがないように、それをし始めたら謙虚さを失っていることなんだと自覚するように、26歳の最後の1ヶ月もちゃんと過ごしたいと思う。

さあ6月も頑張ろう。

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