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「とにかく行動しろ!」と言う前に

これまで自分自身の日常の中で自明として受け入れていたことについて、ふと立ち止まって考えてみようとする時がある。それは友人が何気なくつぶやいたことをきっかけとするかもしれない。もしかしたら何かの書籍に問われることによってかもしれない。

そのような時に自分なりの思考を進めることができるか否かはおそらく人生の展開に大きな影響を及ぼす。なぜならば、思考を進めることそれ自体が自らを肯定することにつながるからだ。

しかし、ひとつまみの勇気で思考を進める他者を見て、私たちは「こじらせている」といった言葉で形容してしまう。このことに私は強い違和感を持っている。

なぜなら「こじらせ」には「面倒くさいことをグダグダ悩んでいる」といった嘲笑の要素を多分に含むからだ。そして私たちはそのように考える人に言うのである。「大人になりなよ」と。

では「大人になる」とは、直面し違和感を覚えた個人的なことを無視することだろうか。客観的なデータや統計を持ち出し、わかっている風を装うことだろうか。それは自らを語ることの対極にある態度に違いない。

行動することへの過度な信奉もこの文脈に位置付けられる。

誰かに何かをアドバイスするとき「悩んでないでとにかく行動しちゃいなよ」といった選択肢が頭の中にすぐに浮かぶ。

行動することは素直の証であり、人生を切り開く上で望ましい態度だ。このような考え方を私たちはそれなりに規範化しているからだ。

その中で、自らの日常を観察し、そこからの体験を気ままに語ることの価値は客観性を追求する潮流の中で周辺化されてしまった。あり体に言えば「無駄なこと」になってしまった。

しかし、その人の人生にとって重要なことは徹底的に「個人的なこと」のはずである。人生で重要なものが「周辺化」された領域の中に存在している。なんという皮肉だろう。

他者の勇気ある思考を「こじらせ」の四文字で片付け、「とにかく行動しろ」といったコミュニケーションを体験すると、思考のベクトルが先細っていくような感覚を抱く。それは行動に思考が従属するような感覚である。

行動中心の世の中だ。

周辺化された思考はどこへ漂流するのだろう。

私は個人的なことは目の前のあなたに知ってほしいことでもある、と思っている。

それは自らの生を肯定しようとする「もがき」の中で出てきた言葉であるはずだから。

だからこそ、誰かの思考を「こじらせ」と退け、「とにかく行動しろ!」と言うとき、いつの日か自分の「個人的なこと」は行き場を失うかもしれない。

そんな想像力を持っていたい。

完。

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