見出し画像

友だちとの「深い話」はどうすればできる?

ある友人と代官山の蔦屋書店でおしゃべりをしていた。私にも代官山に入れる権利くらいはあるようだ。

その友人は「友だちとの『深い話』ってどうすればできるんですかね」と言った。

なるほど。「深い話」ができるほどの友人関係は自分の生を輝かせる偉大な人間関係に違いない。

彼は「『深い』話を通じて、友人と『深く』つながりたい」と願った。これは私のようなシニカルな人間すら抱く、ごく自然な感情であると思う。

では友だちとの「深い話」はどのようにすればできるのだろうか。

***

「深い話」を称揚する番組がかつて日本テレビ系列にて放送されていた。出演者はVTRに映し出される話に、ある種の深さを感じたら自分の目の前に置かれているレバーを前に押し出す。

するとやや滑稽な「フカイイ〜」といったナレーションが流れる。その中で深さとよさは結合し、一体化していた。「深い=よい」は自明であった。

しかし、なぜ深いことがよいことなのかと聞かれるとなかなか難しい問いのようである。そもそも会話における「深さ」とはなんなのだろうか。

もちろんこれは客観的な深さではない。会話の中で「深い!」と思った時、メジャーを取り出して、その深さの測定を開始したら人気者にはなれるであろうが、その後の展開に責任は取れない。

また「深い話」は必ずしも「深刻」な話ではない。その人の存在を揺らがせるような話題ー病気、生まれ、家族などーが望ましくない方向へ向かっていることを知らせる話題は必ずしも「深さ」だけで表現し得ぬものである。

「深さ」を感じるテーマはもっぱら個人的なことに限定されない。世の中には深くなる対象がたくさんある。あらゆる話題が「深い話」につながる可能性を持っているはずだ。

しかし、一般的な会話を「深い話」へ展開するには自分と会話する相手との間で「何か」が起きなくてはならない。否、起こさなくてはならないとは思う。

***

「相手の話に共感しよう」といった主張をよく目にする。このような主張は「相手の言葉にどのように応答すればよいのか」を規定しようとする。

会話する以上、それぞれは相手方の言葉に対して応答するなんらかの責任を背負っている。私たちはこの責任をよりよく背負うことで相手とよりよい会話を作ることができる。

相手の言葉に対して応答する責任を果たそうとするとき、私たちにはさまざまなオプションがある。共感はもちろん同調や反論、質問などさまざまな態度をとることができる。

それら応答の組み合わせで会話は即興的に作られていく。ゆえに会話はとても複雑である。よくもまあこんなに難しいことを日常的にやっているものである。

このような複雑さを私たちは基本的に無視している。しかし「何か」をきっかけに会話におけるメタな複雑さを「深さ」へと勘違いすることで、「深い話」というのはできあがるのかもしれない。

***

とある会話が「浅い」と思う時、心の内で納得しきれない共感をしていることがある。それは自分の感覚よりも相手の立場を優先する応答の仕方である。

その類の共感によって会話は予定調和的に進んでいく。共感と浅さが表裏一体になる場面にしばしば出会うのである。

逆に共感をしなくてもよいと思える時、会話の多くに自らの共感が、本来の共感とは異なる形で潜んでいることに逆説的に気付く。

この共感をしなくてもよいといった感覚の中に会話における「深さ」とは何かを考えるヒントが含まれているような気がする。

その時に大事になるのは自尊心、なような気もする。それは自らが何を言っても自らは傷つかないといった自負心、あるいは自信である。

しかしこれは無邪気な考え方かもしれない。完璧でない自分が完璧でない言葉を取り扱うのだから傷つく可能性を排除して会話を運営することなどはなから無理筋である。

ただやはり自分が何を言っても自分は揺らがないといった感覚は共感以外の応答のオプションを取り出す障壁を下げる可能性がある。

またそのような自尊心は相手は人の赦し方を知っているだろうといった根拠なき信頼によっても支えられる。

仮に自分の言葉が相手を不愉快にさせたとしてもその人は自分を赦すだろう。あるいは他人を赦す方法を相手は知っているだろう。

そのような根拠なき自信を持つことで初めて、私たちは豊かな会話への応答のオプションを取り出すことができる。

以上のようなことは「深い話」を実現する上での必要十分ではないはずだ。しかしそれは「深い話」の根底に流れている必要条件の一案である。

ある人との会話を終えて帰路に着く時、私たちは無意識のうちに今日した会話が深いものであったのか判断をする。

「深い話ができた」と思う時、私たちの中には「他人の話には共感しなくてもよいのだ」といったみずみずしい痛快感が潜んでいるのかもしれない。

***

と、ここまで書いてきて、私は「深い話」を求めようとしているのか自信がなくなってきた。「深い話」を求めているのではなく、浅い会話を避けたいだけなのではないかといった疑念である。

会話における「浅さ」を忌避しようとするのは、自分が「浅い会話しかできないしょうもない人間である」といった自己像からの逃避に過ぎない。またそれは「浅い会話しかできなかったな」といった自己嫌悪からの逃走でもある。

そのような自己像をシニカルに捉える時、「深い話」をめがけて走ろうとすることは滑稽なことに思えてくる。そこに会話の複雑さは考慮されていない。

「深い話をしよう」と思い立ち、いきなり会話を始める人はあまりいないだろう。なぜならそのような決心の類が「深い話」を担保しないと私たちはどこかで知っているからだ。

完。

サポートしていただければ嬉しいです。さらなる執筆活動に投資します!「いいね」だけでも最高に嬉しいです!