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沈黙が正解の世界で

黙っておくことが正解な世の中だとつくづく感じる。日々変わりゆく「ポリコレ」の基準に適応し続けることなど不可能で、いつどこに地雷が埋まっているのかわからない。

可視化された承認欲求を追い求めることは禁断の果実だ。デジタルな発言はタトゥー化し、私たちを永遠のヤンキーにさせる。地雷を踏めば最後、右左から縦横無尽に矢が打ち込まれてしまう。だからみんな「猫かわいい」くらいしか言えなくなる。

黙っておくことが一番よい。沈黙は金。雄弁は銀。地雷原には近づかないでおこう。素晴らしいアドバイス。

その結果、私も「X(旧ツイッター)」で発言することはほとんどなくなった。以前は気軽にネタツイしていたが、今じゃ、いいね魔人だ。

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そこにはもどかしさがある。

自分の考えを「言葉の市場」に晒さなければ、自分の言葉は研磨されない。言葉は発表されるべきものだ。そんな信念すらあった。

すべてがマーケット化する世の中では自分の言葉すら評価の対象である。市場からの評価こそが自分の言葉の価値を決定するはずだ。そこには「市場は正しい評価で評価する」との妄想があった。

しかし、そうではなかった。憎悪にまみれた言葉を見るたびに、行く宛のないレスバを見るたびに、なんか違うと思うようになった。

違和感を拭うには言葉を評価する基準を自分で作る必要があった。だから私は巨大な言語マーケット「SNS」から、自らの言葉を退場させている。自分の言葉のスケールを諦めた。気持ちよく出していた言葉を引っ込めることにした。もどかしさとともに。

その時、もどかしさをよく引き受けなければいけない、と思った。とりあえず黙っていればいい。その通りなのだ。しかし、黙るにもそれなりの度量が必要だ。反射から生まれた言葉が容赦なく弾劾される世の中で言葉を飲み込まなくてはならない。そのためには別の能力が必要だった。

出そうと思ったものを引っ込めるのだから、気持ち悪さが残る。これとうまく付き合うには、ひとまず自責の念から自分を解放する必要がある。

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黙ることは「自己実現」を至高の美徳とみなす「リベラル」な社会と相性が悪い。

自分は発言すべき時に発言できていないのではないか。できたことができなかったのではないか。

この居心地の悪さは「自己実現」を阻害するものとしてもっとも忌避すべき態度とみなされている。(きっと「社会派」な人ほど、そうだろう)

「リベラル」な社会で言葉を用いて自らの意見を表明することは、何よりの存在証明である。沈黙を進んで受け入れることは存在証明する手段を自ら放棄することだ。だから沈黙状態を耐えるには、自分の言葉の提出先を自分で設置し直す必要がある。

そうでなければ、きっと僕らは「沈黙の先」に行けない。言うべき時に自分の言葉を発することができなくなる。来るべき時に向けて、自分の言葉を飲み込んで隠し持っておく必要がある。

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脊髄反射から生まれた言葉の海が「情報」の面を被り、私たちの前に押し寄せている。自分の頭で考えることに得心がいっていないとそれらの言葉に圧倒され、脊髄反射を繰り返すことになる。

脊髄反射を止めるには、言葉を飲み込むためには、社会には本当に色々な事情がある、ということに実感を持った理解がなければいけない。

そのためには精神力が要る。懐の深さが要る。現場を歩く必要もある。勉強も必要だ。アラ、人生って大変なのね。それでも「沈黙の一歩先」に行くには、そうするしかあるまい。50歳になった時、私は「よい顔」をしているだろうか。

この文章を見て「マスキュリンなマジョリティからの戯言だ」と批判する人がいるかもしれない。「今苦しんでいる人の口を塞がせようとするのか」と批判する人もいるかもしれない。

自分の文章に対する批判や反論が次々浮かび上がってくる。X(旧Twitter)のタイムラインを形成する発想が骨の髄まで身についていることが悔しい。

完。

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