こころを掬う〜忘れたくないこと
母と電話で話して、思いがけないところに話が転がってしまった。
3年が経ってもやっぱり母たちにとって、元夫の評価は高く、私にとって聞き捨てならないことを明るくサラリと言ったのだ。
頼りがいのある医師として有能なD。
手先が器用で何でも修理が出来て、料理も上手、育児だってよく出来た、そんな立派な男性。
その評価は彼等にとって今も揺るぎない。
「でもね...彼には人間として致命的な欠陥があるよ」
そう、震えそうになる声を悟られないくらい冷静に伝える。でもイマサラ...って思う心もあった。
◇
母が我が家の状態を知ったのは、私が修復を諦めた2年半前の12月で、そこまでのおよそ7か月間に何があったのかを、その月に来独する予定だった母に伝えた。
もっと遡って、その3年前にも2年間に渡る不倫があったのことも、その時に初めて話した。
親にとっては全く寝耳に水で、理解するのが難しかったと思う。だから私が破綻と修復の間を揺れ動き藻掻いてた時期をリアルでは知らない。
それでもこれまでに何度も経緯と自分の気持ちは話してきたつもりだ。
Dのその外側の評価と、私にもたらした苦しみや悩みの乖離に納得がいかない気持ちが強い時期があった。
1年くらい前にその思いがピークになり、カウンセリングを受けた。
外部からの評価と実情のズレ、が私を酷く苛んだ。
玄関に立って世界中の人間が聞こえるように大声で叫びたかった。なにがあったのか、何をしたのか。
それでも結局は、本当にところは自分以外には分からないし、私が分かっていればいい...そういう風に少しずつ思うようになった。
彼を立派な人だと思うならそう思えばよいのだ。
ただやっぱり親は別なのかもしれない。
どんなに年を取って、とっくに自立していても親からは「無条件で理解してもらいたい」と願っている自分を発見する。
今日の母との話し合いであらためて、哀しさよりも虚脱感の方が大きかった。
決して以前のように深くは傷ついていない。
でもね、やっぱり分って欲しかったな・・・とジョギングをしながら思う。
誰もいない夏至前の長い長い夕暮れの時間に走ると本音が零れ落ちる。
◇
母はドライで、社交的でポジティブを絵に描いたように女性だ。
的確な助言をもらうことも数知れず、母には感謝している。
ただ彼女から「正論とは同時に人を傷つける力を持つ」という事も学んだ。
ずっと幼い頃から、私はもっとウェットな交流を求めてきた。
そういう点においては、昨夏亡くなった義母との方が馬が合ったと思う。
いつも、いつも温かい眼差しで私を見ていてくれた。
Dと私の年齢が離れているので、義母にとったら孫と言ってもおかしくない、遠いアジアの日本から来た私を大切にしてくれた。
義母はかつて自分の息子にこう嗜めた。
“まぁね、完璧な夫婦なんてないし、悪いところはお互い様だけど・・・”
電話の母の声を聞いて反発する。
「そんなこと・・・お互い様だっていうことくらい解ってるよ。だけど、私は自分のパートナーを致命的に傷つけるようなことはしていないよ、絶対にしていない」
ガサツで大雑把で、先延ばし症候群に罹っていて、よく冷蔵庫の物を腐らせる。家を綺麗に整えることを、こよなく愛するドイツ人の彼にとっては、片付けが下手で庭仕事に興味を持たない妻は嫌だったろう。
自分に悪いところが沢山あることは、自分が一番よく知っている。
そんな風にはならなかった。
いつの間にか歯車が全く合わない二人になってしまっていた。
母は「娘」を知っているから、気が利いて何でも確実にやるDは立派で、
だから不倫も...貴女に悪いところがあったから・・・と言われたこともあった。
長年自分を責めてきたけれど、やっぱり私にはアレがあの時の精一杯だった・・・と思えるようになった。
彼と一緒にいて苦しかったこと嫌だったことは私にもある、たくさん有る。
夫婦のことは、当人にしか分からない。
“お母さんの葬儀に不倫相手を参列させたことは、それは確かに彼が悪いよね、私もそれは違うと思った”
「自宅不倫もあったんだよ」
それも知っているのに。
母だって昔、父の不倫問題で泣いたことがあった。でも結局、父が母を手放すことは絶対になかった。
母は“選ばれなかった女”の気持ちは解るまい...
私の夢のために1年間日本に移住し、その後Dと子供だけで4ヵ月早くドイツに戻っていた。
3年前の4月に私が自宅に戻った翌日に、自宅不倫があった証拠を見つけてしまった。
時差ボケの頭を抱えて洗濯機の前で蹲った。
自分に降りかかった現実が信じられなかった。
かつて、“これ以上、ショックな事はない”と思ったはずが、実際の世界は予測や覚悟なんか軽々と超えてくる。
「相手の女性は、私より10も年上で妻としても母親としても、私より先輩で、どうしてそんなことが出来るの?ハタチそこらの小娘じゃないんだよ?」
自宅不倫について電話で泣きながらそう言い募った時に、友人は静かに、しかし内側に怒りを秘めた声でこう私に言った。
その後、幾度も幾度も思い出し考え続けた言葉だった。
あぁ...この期に及んでも、私は夫をかばいたいと思っているのか・・・
彼女の言葉を聴いて茫然とした。
◇
とても激しく引っ越しを考えた時期もあった。
1年くらいは引っ越そうと思って物件を探したが、現実は厳しかった。
大人1人と子どもが3人、ベッドルームが4つある家はドイツでも少ない。
そもそも、優良物件はマーケット上にはなかなか無かった。落ち着いて、様々なことを冷静に再考してみた。
そして、引っ越すデメリットがメリットを上回ることに気がついた。
それに私達がこの家を出れば、Dがその相手と住むだろうことが、どうしても受け入れられなかった。
この家を嫌悪するのと同時に愛着もあったから。
自宅不倫があったのは、数年前から彼が自室に使っていた階下にある部屋だった。
私達は寝室を分けており、かつてその部屋を私が使っていた時期もあった。そこは長男、次男が乳離れするまで寝室に使っていた大切な思い出があった。
そういう家に住み続けることに、どこか恥ずかしさを感じていた。
汚れているのは、その家か、そこに住む私自身なのか。
いくら行かないようにしていても、階下に行く用事はいくらでもあった。
そこを掃除することだってある。
階段を降りるだけで胸が苦しくなった。
あぁこのままではダメになるなぁ・・・と自分の中のアラートが鳴るようになったギリギリの時に猫を飼った。
それも3匹。やっぱり頭の何処かがおかしかったのかもしれない。
だけど猫が来て、家の模様替えをして、そういう部屋にもノシノシ猫が歩き回るようになって、家の雰囲気が少しづつ変わっていった。
時々、どうしようもなくなることがあれば、抱き上げてモフモフした毛に顔を埋めて呟いた。
“どうしてこんなに悲しんかな・・・”
そうやって、ずいぶん猫たちは色々なものを吸収してくれた。
私は徐々に立ち直り、様々な後悔や憎しみを手放すことができるようになった。
◇
今も自分のなかに小さな子がいるのは知っている。
そしてその子は、私自身が癒してあげられるということも。
親の考えや、反応にも過剰に傷つかないようになった。
ずっと離れて暮らしていて、日本とドイツという距離感のなかでは解らないこともいっぱいあるだろう。
私が望んでいる関係ではなくても、私を大切に思っていることは分っている。
それでもやっぱり、傷ついたことを無視してはいけないなぁ、と思う。
スルーする力も大事だけど、自分の心の揺れに鈍感になってはいけないから。
子どものように傷ついても恥ずかしいことじゃあない。
私が高校生の頃に現国の先生が朗読してくれた詩がある。
あの頃、何を学んだかさっぱり記憶が無いとしてもあの詩に出逢えたことは、私の何かを決定的に位置付けた。
「こういう風に生きて行きたい」と強く願ってきた。
十代の自分が初めて買った、その詩が収められている詩集はアフリカにまで持って行ったし、いつも傍に在った。
今日もその詩を思い出した。
そしてやっぱりそう在りたいと思いながら麦畑を見ながら走った。
◇
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