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蝶と蛾

蝶になんてなれるわけなかった。
だから何も言わなかったじゃないか。
僕は蝶だなんて名乗らなかった。
君が勝手に僕を指さして蝶だと喜んだんだ。
僕は蛾だ。
みんな綺麗だとか言って近づいてきては、勝手に失望して去っていく。

なんだ、蛾かよ。

「ほらね」
なんて忍び笑いが聞こえてきて、僕は耳を塞ぐ。

やめてくれ。

耳鳴りがして息ができなくなる。
過去と現在の境目が曖昧になって、次いでに明日が来ないようにと未来を呪った。
火の中に一直線に飛び込んでいけるのなら良かったのに。
僕はいつも誘蛾灯すら見つけられない。
走光性ってなんだっけ。

眠れなかったはずの夜。
誰かが弾くショパンが聴こえて、これは夢なのだと気づく。
エチュード集第3番ホ長調。

当てつけか、と溜息をついて、被害妄想だと首を振った。
これは夢だ。

なけなしの自尊心が崩壊していく音が聞こえる。

愛を知った気になって、幸せになろうとする。

耳許で誰かが囁く。

「君は幸せになっていい人間なのかい?」

嗚呼。
お願いだから。もう。

ぬいぐるみだけを抱きしめていられればよかった。
体温がない代わりにずっと腕の中にいてくれるから。

言葉が想いを伝えるためのものだと言うのなら、差し出されたそれらは言葉じゃない。
言葉の形を模した何か。或いは、言葉に成れなかった想いの亡骸。

僕を救う言葉なんて要らないから僕を傷つける言葉も投げつけないで。
不確かな未来で言葉が光を絶やすことなく生きている保証なんてどこにもない。
君を嘘吐きだなんて呼びたくない。

冷たい手で触らないで、と叫んでしまいたかった。
その汚れた手でベタベタと指紋を付けられたくなかった。
僕は僕を護りたいだけだった。

失う痛みを思い出す度に、「どうせ失くすならはじめから何も、」と言いかけて慌てて口を噤んだのに。

「だから言ったでしょ?」
見透かされて、「依存」なんて言葉に呑み込まれる。

「人は1人では生きていけないんだよ」

微笑っているのか、嘲笑っているのか、わからないよ。

走光性を持つ蛾なら。
この宵闇でも月を見つけられるんだろうか。
それなら僕は美しい羽なんていらない。
蝶になんてならなくていい。

日の目を見なくても、夜に紛れて誰にも見つからなくても。

いつか。

醜さを愛せる日が来ますように。

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