「習字塾」の、あまり明るくない思い出。
とても個人的なことに過ぎないけれど、思い出した時に書いておかないと、そのまま消えてしまう。
といっても、残っても価値があるかどうかは分からないとしても、形にすることで、誰かに伝わって、もしかしたら、ほんの少しでも広がりを生む可能性もあるので、書いてみようと思ったりする。
習字の塾
このことが、どこまで一般的か分からないけれど、小学校まで両側を田んぼに囲まれた道を歩いて、だいたい30分くらいかかるような環境だった。学年ごとに1クラスしかないから、クラス替えがないような地域に住んでいた。
そこには学習塾が存在しなかったので、塾といえば、そろばんか、習字しか選択肢がなく、自分には、計算を早くする、というイメージが全く湧かなかったので、習字にした。
毎週土曜日。学校は午前中で終わるから、帰ってきて、昼ごはんを食べてから、1時間に1本ほど1両の電車(あれはディーゼル車だったと思う)が止まるような駅を通って、家から10分くらい歩いて、商店街のすみにある木造の少し広い建物に通うことになった。
途中でわかったのは、その書道の先生が、豆腐屋をやっていることだったが、そのことと習字を教えてくれることが、どう関係するのか、自分には、よくわかっていなかった。
そこは、寺子屋っぽいような場所で、20くらいの机が並べられていて、下は木の床で、そこに座布団を敷いて、子どもたちが正座して座って、それぞれお手本を見て、文字を筆で書く。
最初は、すずりで墨をすっていたと思ったのだけど、途中から、その作業が面倒くさくなり、ボトルに入った墨汁を使うようになったが、それも、そこで販売していたはずだった。
木造の建物の、床も柱も壁も、あちこちに墨で汚れていて、子供が大勢いて、ただ大人しく書いているという感じではなかったが、それでも、ざわざわしていたとはいえ、それなりに、来ている子供たちは、書道に集中していたと思う。
習字の「先生」
土曜日に、通う。
最初はすずりで墨をすって、それから、見本を見て、文字を半紙に書く。
筆、というものを、ちゃんと使ったことなどなかったので、慣れていない。
最初は、書いて、どうするのか、よく分からないままだった。
だけど、習字セットみたいなバッグは買ったので、それを持って行って、周りの子供たちを見ていたら、書いて、何枚も書いて、ある時にその1枚を持って、立ち上がり、教室の真ん中ではないけれど、大きな机とイスに座っているおじさんがいて、そこに持っていっているようだった。
その人が、ここの習字の「先生」だった。
どうやら、練習し、自分で「いい出来」と思ったものが書けたら、それを持っていって、それが、先生から見ても、よく書けていたら、朱色の墨で丸をつけてもらい、例えば4文字とも丸だったら、そこに「よろしい」という達筆な朱色の文字が書かれて、いってみれば、「合格」の1枚になるらしい。
それ以外は、朱色で直しを入れてくれたり、何か、一言、二言、こうすれば、といった言葉も添えられる。だけど、そんなに、よくしゃべる感じではないから、静かな印象だった。
なんとなく手順は分かったので、筆を使って、見本を見て、文字を書き続ける。
そして、何枚も書いて、自分なりによくできたと思って、立って、「先生」のところに持っていく。
すると、淡々と、朱色の墨で、丸をつけたり、直しを入れてくれる。
それを見て、もちろん、すぐに「よろしい」をもらえるわけではないから、その直しを参考に、また何枚も書く。
同じ小学校に通う子供たちも何人もいる。
少し会話も交わすけれど、学年も違うと、そんなに話は弾まない。
それでも、同じクラスの子とは、もう少し話をしたと思う。
何しろ書いて、うまくいかないと思いつつも、書いて、先生に持っていく、を繰り返す。
なかなか「よろしい」がもらえない。
1時間がたち、2時間がたつ。
「5」を集める
ここに入るときに、小さい折り畳める紙をもらった。プラスチックカードになる前のポイントカードのような形態だった。
それは、小さい四角のマスがたくさん並んでいる。
今から振り返ると、半年分か、1年分か覚えていないのだけど、そこの四角に、今日、「よろしい」がいくつもらえたかのスタンプをもらう。
1日あたり、最高で「5」まで、と決まっているようだった。
それを知ると、「5」をもらうまでは、やめられなくなっていた。
なかなか、「よろしい」をもらえない上に、さらに5枚ももらえるなんて、途中で気が遠くなるような思いだった。
知っている子供たちは帰っていく。
みんな、私よりもやすやすと「よろしい」をもらっているようだった。
別に本人が決めることだから、「5」まで届かず、「3」とか「4」でも、笑顔で、友達と連れ立って、帰っていくようだった。
「5」が最高と知ると、そこにこだわらなくていいのは、分かっていても、その枚数がもらえないと、誰も決めていないのに、自分が帰れなくなった。
何時間かたって、やっと「よろしい」を5枚もらった頃は、書道教室にいる子供たちもまばらになっていたし、すっかり夕方になっていたから、3時間くらいはいたのだと思う。
今、考えると、最後は「先生」も、しょうがないな、という感じで「よろしい」を書いてくれていたように思う。
毎週、そんな日が続いた。
遅い昇格
そして、毎月1回、自分が書いて、自信がある1枚を提出するシステムも知った。
それを、どこかの「本部」に送って、昇格かどうかが決まるらしい。
一緒に書道教室に通っていたクラスメイトに、そのことを聞いたのだけど、ピンとは来ていなかったが、何しろ、それに従った。
その「1枚」を書き上げるのにも時間がかかった。
何ヶ月かたった。
習字塾の段位は、最初は7級から始まる。
毎月、昇格審査用の自分の「作品」を提出し続けたのだけど、6級に上がらなかった。
それでも、そのことの意味が最初は分からなくて、そんなものかと思いながらも、なんとか毎週、書き続けて、何時間も教室にいて、他の子たちが帰っていっても、「よろしい」を5枚もらうまで、書いていた。
そのうちに、同じ頃に書道教室に通い始めた、同じ小学校の子たちが、昇格のことについて聞いてきた。
「今、何級?」
7級。
「え、そうなの?普通は、2ヶ月くらいで6級が普通だよ。私たちも、みんな6級になったのに」。
といった会話がされて、それは、今で言えば「いじり」みたいなものだったのだろうけど、そういうものか、と思って、それならば、もっと自分が上手くならないとダメなんだと思った。
そして、次の週から、書道教室へ行って、今まで以上にたくさん書くことにした。
だから、墨をするよりも、完全に墨汁を使うようになった。
半紙も多く使っていたと思うし、意識していなかったのだけど、書くスピードも早くなっていったはずだった。自分では、その量をこなすことと、いい文字を書くことがイコールではないのを、分かっていなかった。
量産が可能なのは、筆圧がとても弱いからだったのを、後になって知るのだけど、その頃は分かっていなかった。
何しろ、いっぱい書いて、なんとか「よろしい」はもらって、毎週「5」は重ねて、その小さな「ノート」は「5」で埋まったので、記念品をもらった。確か、ボールペンみたいなものだった。もらって、嬉しかった、というよりも、全部を「5」でうめたことに、自分が勝手に「やらなくちゃ」と思っていたことを達成して、少しホッとしただけだった。
「先生」に言われたこと
毎週、習字塾に通って、行けばほぼ必ず「5」をもらうまで頑張ったと思う。その頑張りが意味があるかどうかは分からないけれど、7級から6級に上がれたのは、半年後くらいだった。おそらく、そんな遅い昇格の人間はいなかったのだと思う。
習字の「先生」に、直しを入れてもらって、また頑張って書いて、持っていって、の繰り返しの回数だけは多かったのだけど、それが正しくないことを、実は、そっと伝えてくれていたのかもしれないと思うのは、何度も「先生」に言われていた言葉があったからだ。
それは、少しあきれたような表情と一緒だった。
「文字に、子どもらしい元気さが、ないねえー」。
それを聞いている方は、やっぱりちょっと悲しかったかもしれないが、そういう自分の感情に対しても、少し鈍い小学生だったし、そんなに頭もよくなかったから、その真意も分からなかったし、そして、努力の仕方をどうすればいいのかも分からなかった。
2年半くらい、毎週、習字塾へ通って、滞在時間だけは長かった。最終的には、確か3級か2級くらいまでは昇格した。だけど、それは、同級生たちと比べると、とても遅くて、低い位置だったはずだった。
「悪筆」の気持ち
今は、手書きの機会が少なくて、こうしてキーボードを打っていると、分からないけれど、手書きの場合は、人に迷惑をかけるほど、下手な自覚はある。手書きの文字のことでは、よく謝っているし、苦笑を生むことも少なくない。
今でも、時々、速さ重視で書いた文字が、自分で読めないことも少なくない。
ただ、今は手書き自体が減っていて、だから、その機会自体が減っているのだけど、いわゆる「悪筆」と言われている人の書いた文字を読み取ることが、他の人よりも、たぶん得意だったのは、その「悪筆」の気持ちが分かる、ということだと、思う。
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