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「向いている」や「向いていない」を、考える。(後編)。

「向いている」や「向いていない」という言葉が強い意味を持つ場所や、「向いている」や「向いていない」という言葉が、どれだけの効力があるのかどうかを、前編(リンクあり)では、考えてきた。

 その一応の結論として、その人があることに本当に「向いているか」どうかは、分からない。やってみないと分からないし、ある程度続けないと、わからない、ということに辿り着いた。

 ただ、これだと、あまりにも素朴すぎる感じだし、「自分は、この仕事に向いているのだろうか」と悩む人が、もしいたとしたら、あまりにも乱暴な結論だとも思ったので、後編では、もう少し考えてみたいと思います。

「向いている」と断言する人

 何かを選択しなくてはいけない時、あることを選んで、他の可能性を捨てる時、やはり、そのことが「向いているかどうか」は考えると思う。そして、そのことについて、いろいろな人に聞いたり、専門家にも尋ねたり、をすることが多い。

 それでも、基本的に、絶対に向いている、といったことを断言できる人は少ないはずで、逆に断言できる人は、怪しいかもしれない。誰にでも「向いている」と断言し、ほとんどの人が失敗しても、そのうちのひとりでも成功したら、「私が育てた」と言う可能性もある。そう考えると、誰かに聞くのもこわくなる。

「向いているかどうか」が早くわかる分野

 「向いているどうか」が、早めに分かりやすい分野は、スポーツや芸能だと思う。 

 そのことを始めて、「向いている」ときは、成果が上がりやすくて、かなり目に見えてわかるし、それだけに「向いていない」も見極めやすく、他の分野に比べたら、あきらめもつきやすいかもしれない。

 だけど、サッカーのマラドーナのように、明らかにすごい一流はごく一握りで、そういう場合は分かりやすいが、そこまでいかないけれど、でも「向いている」ように思う、そして、プロになれるかどうか、のレベルの場合に、「選択」が難しくなるように感じる。

選択をする時

 昔、スポーツの分野の取材をして書く、という仕事をしている時に、この「選択」について聞いて、覚えていることがある。

 あるスポーツの分野で優れている選手がいた。中学生で、すでに全国で名前を知られるような「向いている」存在だった。そして、その選手が、高校に進む時点で「選択」をする時が来た。その際、地域で最も強いと言われているチームではなく、進学校の中で一番強い高校を選んだらしい。その後、その選手は、そこからはあまり名前を聞くことがなくなった。その時の「選択」については、やはり最も強いチームを選ぶべき、といったことを言う関係者が多かった。

 だけど、結果として、何が正解か、は分からない。一番の強豪校に進んでも、そこで伸びなかった可能性もある。そうなったら、そのあとの進学も難しくなり、そこでケガなどをして挫折をしたら、それこそ「人生を棒にふる」ことになるかもしれない。

 それでも、「向いているかどうか」を早く分かろうとするならば、もっとも「向いている」人が集まっている場所に行くべきだとは思う。そこで、本当に「向いているかどうか」がはっきりするからだ。

 もちろん、その選択が正解かどうかは、分からない。

 ただ、それで挫折したとしても、そういう選択をできる人間は、その後も、なんとかしていく場合が多いような印象があるから、選択するならば、自分が「向いている」自覚が少しでもある時は、本当に「向いているかどうか」を、なるべく早くはっきりさせる選択をすることは、若い時ほど有効だと思う。

努力を無駄にしたくない気持ち

 ただ、そんな「選択」をするには勇気がいる。

 というよりは、自分もそうだったけれど、そんなに大きな成功につながる可能性がある「選択」ではなくて、成功しても失敗しても、振り幅がそんなに大きくないから、余計に「選択」に悩むのかもしれない。

 それは、やはり「向いていないこと」に努力するのは時間の無駄になるのではないか、といった不安が、かなり大きいのだと思う。

「選択」のあと

 ただ、かなり前に「選択」をしてしまった若くない人間には、「向いているかどうか」を考える時期はいつのまにか過ぎ、とにかく「やるべきことをやる」しかないから、もしかしたら「向いているかどうか」を考えられるのは、まだ可能性に開かれている時期にいる、ということだろう。

 そして、「選択」のあとの、「やるべきことをやる」時間の中で、実力の差は開いていくことも多い。本当に、そのあとに差が出てくるのは、「向いているかどうか」よりも、「どうやっていくか」だと思うようになる。

 最初に「選択」する時に「向いているかどうか」を悩むのも当然だし、自分が成功者ではないので、説得力はないかもしれない。それでも、実は、どんな「選択」をしても、そんなに変わらないのではないか、と思うようになった。

 それは、自分だけの感覚に頼っているわけではなく、周りの人間や、著名な人たちの動向などを、10年とか20年見続けることになると、「向いていても」順調な時だけでないし、多少「向いていなく」ても、工夫や努力でなんとかなることも少なくないことが、嫌でも分かるからだ。

 その仕事などで、心身を壊しそうになったら、それは「向いていない」し、その職場の「人間関係」が「向いていない」場合も無理をしないで離脱したほうがいいのだけど、それでも、「向いていない」と感じながら、苦しみつつ取り組んだ時間でも、それがまったくの無駄になることは、ほとんどない印象が強い。それは、大変だと思うのだけど、苦しんだ人が、そのあとに、その経験を生かすような、別の仕事を始める場合も少なくないからだろう。

 だから、どんな「選択」をしても、長い目で見ると、そんなに変わりなく思えるのかもしれない。

「向いているかどうか」を考えることが、あまり重要でない場合

 この話は、以前も書いた記憶があるので、繰り返しになってしまうが、たぶん、小学生くらいの時に、クラスメートに尋ねたことがあった。

 勉強熱心な人間に、「そんなに熱心なのは、勉強が好きなんだね」といったことを聞いた時に、微妙な怒りとともに、「好きとか嫌いじゃない。やらなくてはいけないから、やるんだ」といった答えがかえってきて、それは、自分の中には、それほどない発想だったのだけど、感心もしたのは、そのクラスメートが勉強もできたからだと思う。

 この記憶も、本当かどうか怪しくなっているのだけど、でも、少なくとも、こういうタイプの人は少なくないと思う。

 そういう「好きか嫌いか」は関係なく、「やるべきことをやって、成果をあげる人」は、現代社会への適合性が高いから、こういう「向いているかどうか」も、実は考える必要がないのかもしれない。「向いてなくても、必要ならできる」くらいの能力がある可能性が高いからだ。

 そういう人は、「向いているかどうか」という「選択」に、そんなに悩まなくても、何を選んでも、時間がたてば、ある程度は、できるようになると思う。その頃は、「向いているかどうか」については、あまり考えなくなっているはずだ。それで、ほとんど問題はないと思う。

それでも「向いている」を選びたい時

 ここまでいろいろと書いてきたことと矛盾するかもしれないが、「向いているかどうか」も大事かもしれないが、それとともに、というか、場合によっては、それ以上に「それがやりたいことなのか」が、かなり重要になる。

「好きか嫌いよりも、やるべきことをやる」習慣がついた人が、順調に進んだとしても、いつか、自分のやり方に微妙な疑問を持ち、「もっと向いていることがあるのではないか」と思う時が来るかもしれない。

 その度合いが強く、切実であれば、リスクはあるとしても、「自分のやりたいこと」にもう一度、向き合う必要があるのだけど、それが、すぐに分かることは少ないはずだ。普段から、自分の「好き嫌い」に耳をすませて、自分の気持ちに聞く習慣が身についていないと、それは難しいからだ。

 自分の「好き嫌い」ですら、周囲の様々なことに影響を受けているし、自分の「好き嫌い」よりも「やるべきこと」を優先させてきた場合は、特に、その感覚を取り戻すのに、一定の時間がかかるから、ここに踏み出す場合には、慎重になる必要はある。

 それでも、最終的に「自分のやりたいこと」は、時間をかけて「本当に向いていること」になりやすいから、リスクは大きいことを覚悟し、それまで身につけた方法をいったん捨ててもいいのなら、チャレンジする価値はあると思う。

「向いていること」が分かりやすい人

 「向いていることが、分かりやすい人」は、この逆に近い。

 何かをする時に、「やりたくないけど、義務だからやる」といったことに、すごく弱くて、自分の興味とやる気と成果が直結しているような人だったら、「向いていること」は分かりやすい。

 「やりたくないこと」ができない体質だから「向いていること」と「やりたいこと」が、ほぼ一致している。

 こういう人は、そんなに迷わないかもしれない。

 だから、こういう文章も、そういう人には、あまり意味がないと思う。

「向いている」と「向いていない」の先

 個人的な狭い経験に過ぎないけれど、三十歳を迎える頃から、あまり「向いているかどうか」を考えなくなった。
 考えていたのは、仕事の質をあげることだった。

 ただ、その後、介護に専念して、無職の時間が10年以上続き、それまでとは違う仕事をするために学んでいた時は、年齢が高くなっていたにも関わらず、「向いていないんじゃないか」と不安になった。以前の仕事で身につけたことが、かえってマイナスになるようにさえ思った。辛かったけれど、切実でもあり、新鮮な感覚で、それは、学んでいる場所に若い人が多いせいもあったと思う。

 そういう真剣な空気に影響を受けて、それで自分も「向いていないこと」への怖さも、本当に久しぶりに味わったが、それから、何年かたって、細々と仕事を続けているのだけど、「向いている」といった確かな感触は今もない。

 それでも、いつのまにか「向いていない」という思いを、微妙に抱いていた方が、仕事を続けていくには、必要な要素ではないか、と思うようになっている。

 すごく仕事ができて、「向いている」としか思えない人が、本当はどんな風に考えているかどうかは分からないし、長く仕事を続けても、仕事の困難さは変わらないどころか、増していく、という話を先人に聞いたこともあるから、「向いている」と思う時は来ないのかもしれない。

 この先、心身に不調をきたすような「向いていない」場合は、そこから去ることを早く考えたほうがいいと今でも思うけれど、でも、「向いている」と心から思える時は、来ない予感もある。

 それでも、微妙に「向いていないかもしれない」と感じながら、だからこそ、放っておくとサボってしまう自分が、少しでも努力とか工夫とかをしようと思えるような時間には、飽きや退屈が入り込んでくることは、まだ少ない。

 そう考えると、たぶん、幸運なことに、自分の現状は、そんなに悪くないのだと思う。


 成功者でもなんでもない人間が伝えると、そんなに説得力がないのは自覚していますが、社会で働いて、10年以上くらいの時間が経っている人ならば、おそらくは似たようなことを考えているのではないか、と思って書きました。

 いつものように、まとまりもあまりないですが、これを踏み台に、さらに考えを広げたり、深めてもらえたら、嬉しく思います。



(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただけたら、うれしいです)。


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