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同じ人が、同じ話を繰り返す理由について考える。

 あ、また同じ話をしている。

 そんなことを思ったことがない人はいない、と思う。

 例えば、身近な人で、そんな人がいる場合、その人が話を始め、あるテーマにさしかかった時、空気が変わるような気がする。

 また、同じ話か。

 それは、誰か自分以外の人だと、同じ話をしているのは、よくわかる。だけど、自分自身だと気がつきにくい。

 どうして、人は同じ話を繰り返してしまうのだろうか。


自慢話

 まず、思いつくのがいわゆる「自慢話」

 それも、そこにいる人が見たことがないような成功したストーリーを、その人は話し始める。それも、俺は頑張って、不可能に思えることを可能にしたんだ、といった話が多いように思う。

 そして、その周囲の人たちは、その人に権力があれば、「さしすせそ」言葉を基本として聞いているかもしれない。

 さすがですね。
 知りませんでした。
 すごいですね。
 センスがいい。
 そうなんだ。

 最初は、いわゆる夜の街の女性がよく使っているという言われ方をされていたのだけど、この応答の方法は、いつの間にか小学生の雑誌に載るほど有名になったのだけど、考えたら、アルコールが入ってサービスを提供する側は、お客にいかに気持ちよく話してもらうか。が大事だから、この説が本当かどうかの前に、リアリティがあるように感じてしまうのだろう。

 ただ、不思議というか、自分自身が会社組織にそれほどいなかったせいか、飲み会というものにあまり出ないせいか、もしかしたら基本的に人との付き合いがうまくないためなのか。どの理由かはっきりしないけれど、自慢話を繰り返す人がすぐに思い浮かばない。

 その上で、個人的には、人の自慢話を具体的に記憶していない。

 だから、この場面に遭遇しているのは、ある程度の人数が参加する飲み会のような場所に、定期的にいる、という条件が必要な気がする。そして、そこに参加し続けなくてはいけない環境も必要なのかもしれない。

 でも、同時に、もしかしたら自慢話を繰り返す人、というのは、今はとても少なくなっているのではないか、という気持ちもある。

自慢話の変化

 自慢話については、特に21世紀に入ってからは、あまりいいものと思われなくなった。

 自慢話をする人は嫌がられる。

 そんな言葉も、繰り返し語られるようになって、人が多く集まる場所にほとんど行かない私にとっても、耳にする機会が多くなった。

 だから、自分自身も、話すときに、自慢話をしていないだろうか。そんな判断をかなり頻繁にするようになった。元々、人に自慢できるような話がほとんどないから、素材自体が少ないけれど、それでも、そんな注意をするようになったら、もっと自慢話をすることは少なくなった、と思う。

 ただ、それは自分が思っていることだから、周囲から見たら、また自慢話をしていると思われるかもしれないけれど、でも、社会の中の総量として、自慢話は減っているような気がする。

 だから、同じ人が自慢話を繰り返し語る場面は、あまり見られなくなっているように思う。

 それでも、これは感心される話---つまりは、こんなことを知っている私は賢い、というように形を変えて、繰り返されている可能性はある。

 誰かが、うんざりした口調で、カマキリは交尾をしているときに、オスが食べられている話は、もう聞きたくない、と言っていた記憶がある。

 これを知っている自分は賢いだろ?そして意外だろ?と本人が思っている自慢話の変形は、今でも繰り返されているような気がする。

 そして、こうした話題は、聞いていて、やはり苦痛かもしれない。

おもしろいと思われる話

 あとは、話をしたときに、周囲の人が笑ってくれた場合。

 あるプロの芸人は、劇場で、自分の言葉によって200人くらいの人が一斉に笑ってくれた気持ちよさは、他に変え難い。それを味わったら、やめられなくなる、という話をテレビでしていた記憶がある。

 それは、本当だろうと思ったのは、1人でも2人でも、自分が話したことで、心から笑ってくれるのは、やっぱりなんとも言えない気持ちよさがあるからだ。それも、自分が大事だと思っている人が笑ってくれると、その時は幸せな気持ちになる。

 だけど、最初は、話をすることに関して素人の場合は、おそらくは面白い話をしようとして、ではなく、偶然、面白い話ができることがほとんどだと思う。

 すると、その時の気持ちよさを味わいたくて、目の前の人に笑ってもらいたくて、その「笑ってくれた話」を繰り返すことになる。

 だけど、最初にほぼ無意識で欲がなく話したからこそ、笑ってくれる話になったはずだから、同じようなことにはならない。それでも、周囲は愛想笑いくらいはしてくれるだろうけれど、でも、もう一度、最初のような空気を期待して話をしてしまう。

 でも、それは達成されることはないから、だから、同じ人が、同じような話を繰り返すことはありそうだ。

思い出話

 同じような思い出繰り返し話す場合もある。

 でも、それは、その人にとっては大事な記憶で、もし、その話をしている相手が、同じ思い出を共有しているのであれば、その話をすること自体が、意味があることなのだと思う。

 このことは、幸せな時間があったことと、その時間が再びおとずれるのが難しいこと、さらには、その記憶がどんどん遠くになっていくことが重なると、より繰り返される傾向が強くなるような気がする。

 その思い出話に対する思い入れが、話す本人と、聞く周囲との間でかなり一致していれば、その話をしている時間が幸せになるのだろうけれど、その可能性は少ないだろうから、そのずれを埋めようとして、繰り返し話されるのだろうと思う。

 ただ、それは、また話をしていると思われながらも、他の繰り返される話とは違って、迷惑という部分よりは、もう少し幸せなニュアンスが強いと思う。

大事だと思っている話

 これは、もしかしたら周囲の人にとっては、かなり苦痛が多い話かもしれない。

 その本人が、これが大事だと思っている話。いわゆる座右の銘のようなこと。自分の体験の中でつかみとったと思えている成功のための法則。

 もし、それが本当であって、そのおかげで、現在成功を収めているのであれば、それほどその話を繰り返さない可能性はある。ある種の企業秘密的な意識があれば、それほど広く話さないだろうし、話すとしたら、本当に伝えたい人だけにするはずだ。

 だから、もしも、そうした成功の法則を繰り返し語っているような人がいるとすれば、それほど成功したとは言えない場合で、そうだとすれば、自分の賢さを誇っているような自慢話の変形でもあるのだろうから、これは聞くのが辛いかもしれない。

 この場合は、自分が、その話に乗れないのであれば、避けた方がいいのだろうか。でも、避けられない立場にいる場合はどうしたらいいのだろうかと思う。

話を繰り返す理由

 全部の話に通用するかどうかは、それこそ自信がないものの、昔から、どうして人は同じ話を繰り返すのだろう?については、考えてきた。

 それで、根拠はそれほどないものの、一つの仮説(大げさですが)を立ててきた。

 話を繰り返す人は、基本的に、その話を聞いてもらっていないと思っている。だから、もっと話をきちんとしないと伝わらないのではないかと考えて、繰り返すことになる。だけど、ああまたそれか---という空気があれば、さらに熱心に話をする。だけど、聞いてくれない。届いたという実感がないから、また次の機会に同じ話をしてしまう。

 だけど、それはまだ一度も届いたことがない。

 そうであれば、本当に、その話を聞く人が現われれば、そこで、その繰り返しは終わるかもしれない------。

 そんなことを思うようになったのは、個人的な経験があったせいかもしれない。

 認知症の症状が家族に出て、同じ話を繰り返されたとき、単純な確認の時は、それが5分で50回になると、思わずうわ、っと叫んでしまうくらいの辛さがあったものの、それでも、昔の話をして、それはもう何回も聞いた。と思う内容だったのだけど、ある時から、聞くとどうなるのだろう?と思うようになり、一回、一回をその場面を想像して聞くようにしたら、ある時期から、その内容が一歩進んだような気がしたことがあった。

 その頃から、認知症と健康な人を比べるのはどうかと思いながらも、話を繰り返す人は、それぞれの内容が違っていたとしても、聞いてもらえている実感が薄いのではないか。と思い、その「仮説」を家族などに話すことはあった。

 それ以上広く話すことがなかったのは、その「仮説」を伝えた家族の反応もそれほどでもなかったし、自分だけの確信だったせいだ。

 だけど、最近、読んだ本で、こんなことを知った。

聞く力

 聞く力がたとえばどう活きて来るかというと、哲学カフェを実践している友人から話を聞くと、さっきの話じゃないですけど、マンスプレイニングおじさんというか、「俺の話を聞け」というタイプの方がいらっしゃって、場を制圧するらしいんですね。哲学カフェは「聞きますよ、話してください」というルールがあるから、そういう説明したがる人の言動にお墨付きを与えてしまう側面がある。(中略)

 でも、話を本題に戻すと、長年哲学カフェのファシリテーターをしていた友人で、大阪大学の臨床哲学者である鈴木圭一郎さんによると、そういう方がなんで同じ話を何度もするかというと、「話を聞いてもらえない」と思っているんですって。自分が言っているのにみんなが「またか……」という顔をしていたり、話題もなんか流されたりして、自分の話を聞いてもらえていないと思っているから、もう一回説明しなきゃという風になる。だから、必ずしも怒っているわけではなくて、聞いてもらっていないからしゃべらなきゃ、言わなきゃと。つまり、相手に伝わるような仕方で聞いているよという姿勢が取れたとき、その方は、抑圧的で一方的な説明ではなくて、その場で会話のやり取りを回してくれるようになるということだそうで。

(『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』より)

 これが全て正しいわけではないかもしれない。

 だけど、自分が以前から思っていたこと。繰り返す人は聞いてもらっていない、と思っているのではないか、という仮説を、こうして伝えてもいいのではないか。それくらいの自信は持てるようになった。



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